『GA』という建築専門誌がある。NYでも、パリでも、ロンドンでも――教養ある人なら誰でも知っている。そして、世界の建築家たちは、その雑誌に載ることを夢見て仕事する。その『GA』は一人の日本人が作っている。二川幸夫、世界最高の建築写真家。彼は27歳でデビューしたその日から、世界の巨匠の一人になった。73歳の今も、1日24時間1年365日、建築のことだけ考えて暮らしている。1日1000㎞クルマを走らせ、世界中の建築を見つめて生きている。建築家の守護聖人にして、男子の憧れ、二川幸夫が初めて、そのベールを脱ぐ。過去の貴重なインタビューを5回にわけて振り返る4回目。【#1】【#2】【#3】※GOETHE2006年4月号掲載記事を再編
無視するには全部見なきゃ、1週間で6000kmは走る。
美術出版社を継いだ息子の大下敦は、その後も二川の良き相談相手となった人だが、だからと言って、彼にその父親と同じ役割を押しつけるほど、二川は無神経ではなかった。
大下正男が存命だった頃、二川は社員たちから、密かに『美術出版社の天皇』と呼ばれていたくらいなのだ。大下という巨大な楯があったからこそ、彼は自由に振る舞えた。
「本だけじゃなくて、美術出版社から出ているものは雑誌でもなんでも、ポンポンやらせてもらってたんです。僕がやるって言ったら、それは、全部やるってことなんだ。撮影から構成から、何から何まで。広告の文面までみんな自分で書いちゃう。俺が乗り込んだら、みんな首切られちゃうって、労働組合ができたっていう話もあるくらい(笑)。好きなことになると、前後の見境がなくなるから、普通の人にはついて来られない。息子の敦君と話して『あんたとやろうと思ってたけど、俺が乗り込んだら、会社が大変なことになりそうだから』って、身を引くことにしたんです」
もちろんそれで、仕事がなくなるなどとは思ってもいなかった。二川の才能は出版界に隠れなく、引く手はあまただった。事実、ある大手出版社の社長が、なんでも好きな本を作ってくれと依頼をしてきた。
「それじゃ『世界デザイン全集』を作りましょうという話になって、僕はシナリオを書き始めた。1年かけて書いたシナリオは、厚さ10センチになった。それ持って行って、取材費はだいたい4億8千万円くらいかかりますって言ったら、大社長が引っくり返った(笑)。4億8千万円に僕の取り分は入ってないんだよ。なのにその社長が『そんな無茶な』って言うから、頭にきた。こっちは1年もかけて、シナリオ書いたのに(笑)。僕の中では、ちゃんと勝算はあったんだ。全世界を相手に売ろうと思ってたから、40億円は儲かるだろうって。だって、それだけの本が作れるのは、世界中に僕しかいないんです。その時僕は、世界のどこにどういうデザインがあって、それがどうなってるか、全部知っていたんだから」
話は前後するが、その頃、二川は世界中を歩き尽くしていた。初めての海外渡航は毎日出版文化賞を受賞した1959年のこと。冬の北太平洋を貨物船に10日間揺られて渡り、辿り着いたロサンゼルスでカルチャーショックに見舞われる。
「外国なんて、本当はあまり興味がなかったんだけどね。フランク・ロイド・ライトの建物が見られるっていうんで行ったんです。しかしそこにはスケールの大きな、想像もできない世界がありました。日本しか興味なかったのに、俺はどうしてあんな馬鹿なところにいたんだろうっていう(笑)。他のことが何も見えなくなってしまった」
それからは、日本で仕事をして金が貯まると、外国へ飛んだ。1年の3分の2は外国で暮らしていた。アメリカ、中南米、ヨーロッパ、アジア、中近東……。最初の3年で、世界を2周はしていたという。行動半径は飛躍的に広がったが、行動様式は民家の時と変わらない。懐に余裕があれば、街いちばんのホテルに泊まり、最高のレストランで最上のワインを飲んだ。なければスラム街でもどこでも寝た。そして、ここが大切なのだが、どこに行っても、たちまちその人間的魅力で、出会った人々と“親類”になってしまう。そういうふうにして、二川はあの喧嘩腰の強烈な視線で、世界中の建築物を虱潰しに、見て回っていたのだ。フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエという現代建築の巨匠の作品から、アジアや中近東のスラムの民家に至るまで。あらゆる建築という建築を見つめ抜いていた。
昔と違いがあるとすれば、その『日本の民家』が、人との出会いを、助けてくれたこと。行く先々で、初対面の自己紹介をすると、相手が「おまえが、あのユキオ・フタガワか」と、懐かしそうに両手を差し出すという経験をした。世界の建築家の間で『日本の民家』と『日本建築の根』が密かなブームになっていたのだ。大下はその本を、英語をはじめ数カ国語に翻訳し、世界に送り出してくれていた。
「そうは言っても、最初の頃は、無茶な写真の撮り方もしてました。撮影許可なんて、ほとんど取れないんだから。当時オフィスビルとして一番素晴らしい建物がNYに完成した。チェイスマンハッタン銀行でした。その建物の内部が撮影したかった。だけど、今度は何日ビルの前に立ちすくんでたって、会長が出てきて、生卵飲ませてくれるわけもない(笑)。だから、覚悟を決めてカメラ担いで、会長室まで上がって行った。図面を見てるから、どこに何があるかわかってる。そこでおもむろに三脚を立てて、撮影を始めた。警備員だか秘書だかわからないけど何人も飛んで来ましたよ。英語なんてロクにできないけど、たぶん『許可は取ってるのか』とか言ってる。僕は『イエス、イエス』って、堂々と撮ってるもんだから、しまいには向こうも納得しちゃった。アメリカ建築界の大御所フィリップ・ジョンソンの家も、勝手に潜り込んで、掃除のオバサンと話をつけて撮っちゃった。その写真が雑誌の表紙になって、それをニューヨークの本屋で見た本人から手紙が来た。訴えられたと思ったら、『実に素晴らしい。今度はちゃんと僕の作品を撮ってくれ』って(笑)」
そういう暮らしを始めて、すでに10年の歳月が流れていた。その前提での『世界デザイン全集』だ。4億8千万円という金額も、冗談やホラ話から出たわけではない。
「日本で指折りの出版社の社長が『無茶だよ』って言うんだから、これはもう他も同じだなと思った。そりゃ相手が大下社長だったら、そんな企画立てないですよ。失礼だけど、そんな金ないのはわかってる。あの人となら、大金を使わなくても、思い通りの仕事ができるしね。だけどあんな人を、もう一度、この世の中で探すのは難しいぞ、って思ったんです。そうなったらもう、好きなようにやるには、道はひとつ。自分で出版社興すしかないぞと。それで、敦君にも相談したら、すごい心配された。出版界の事情とかいろいろ話してくれてね、建築の本はそんなポンポン売れるもんじゃないって。とどめに、彼がこう言うんだ。『フタちゃん、あんたは確かに本を作るのは上手い。だけど、出版社をやるのは難しいよ。まず、営業に向いてない。あんたみたいに、頭から怒鳴りまくったりなんかしてたら絶対に無理だ』って(笑)。なるほど、困ったと思ってね。ない知恵を絞って、本当にいろいろ考えた」
そして絞り出したのは、それでもやるという結論だった。その頃すでに、彼が世界中を回って撮影した建築物のネガは、数万カットに達していた。営業をしたり、広告を取るのは向いていないだろうけれど、誰かに頭を下げて、本を売ろうなどとは考えていなかった。日本では建築の本が売れないと言うなら、外国で売ればいいだけのことだ。
そして1970年10月10日、二川は出版社『A.D.A EDITA TOKYO』を設立。『GA』の第一号を発行する。初版は3000部。一冊に掲載されるのは1軒ないし2軒の建築物のみ。判型はB4サイズ。当時世界に類のない巨大な判型をさらにはみ出す勢いで、二川が撮影した世界で最も美しい建築が迫ってくる。その圧倒的な臨場感と迫力は、二川の個性そのものだ。