『GA』という建築専門誌がある。NYでも、パリでも、ロンドンでも――教養ある人なら誰でも知っている。そして、世界の建築家たちは、その雑誌に載ることを夢見て仕事する。その『GA』は一人の日本人が作っている。二川幸夫、世界最高の建築写真家。彼は27歳でデビューしたその日から、世界の巨匠の一人になった。73歳の今も、1日24時間1年365日、建築のことだけ考えて暮らしている。1日1000㎞クルマを走らせ、世界中の建築を見つめて生きている。建築家の守護聖人にして、男子の憧れ、二川幸夫が初めて、そのベールを脱ぐ。過去の貴重なインタビューを5回にわけて振り返る1回目。※GOETHE2006年4月号掲載記事を再編
「人を馬鹿にするにもほどがある」
1959年、第13回毎日出版文化賞の授賞式会場は、ちょっとした見ものだったに違いない。
なにせ当時の日本の出版界では、指折りの権威ある賞である。長年の功績を讃えられ壇上に居並ぶ受賞者は、錚々たる文人や学者たちばかり。そのほとんどが、明治大正の生まれの、誰知らぬものない有名人だった。一人の若者を別にすれば……。
その若者は、紋付き袴の室生犀星の隣に涼しい顔で座っていた。赤いタートルネックのセーターに、足元はあろうことかゴム草履である。犀星翁の渋面が目に浮かぶ。にもかかわらず、若者には少しも恐縮している様子がない。それどころか、貰ったばかりの賞金封筒を開け、中身を確かめたりしている。
受賞挨拶が、さらに傑作だった。
モーニングに身を固めた当代随一の経済学者、美濃部亮吉が『私の経済学』という表題の高尚なスピーチを終え、万雷の拍手の中を降りた演壇に、この27歳の若者はペタペタとゴム草履の音をたてて登った。
そして、開口一番――。
「人を馬鹿にするにもほどがある」
持ち前の胴間(どうま)声で、吠えた。
「この日本で最も権威のある出版文化賞の賞金が、3万円とは何事ですか! 冗談じゃあない。私は今日、家を出るとき女房に、賞金で腕時計を買ってやると約束してきた。こんな雀の涙じゃ、買えやしない」
……その通りの言葉で若者が語ったかどうかは定かではない。若者は話術の達人でもある。おそらく、上方落語の師匠もかくやという流暢な大阪弁を駆使し、面白可笑しく、冗談交じりに話したのではなかろうか。堅い話が続いた会場は、爆笑の渦に包まれたに違いない。
その証拠に「なんだこの小僧」という顔で若者を睨んでいた室生犀星も、美濃部亮吉も――つまりこの日一緒に毎日出版文化賞を受賞した歴々は、この日からこぞって若者のよき理解者となった。
もちろん、彼らが若者の受賞作『日本の民家』を、(おそらく家に帰ってから)じっくり眺めたことは想像に難くない。ため息をつきながら、あるいは目尻にうっすらと涙すら浮かべながら、ページを捲るその音が聞こえてくるような気がする。
それは、日本各地の美しい民家を徹底的に撮影した、畏るべき建築写真集であった。
戦後、14年目。経済白書の「もはや戦後ではない」という言葉が流行語となり、日本は高度経済成長期に突入していた。
敗戦で空いた日本人の心の空洞に、思想も文化もライフスタイルも、美しさや正しさの基準までもが、アメリカという国から音をたてて流れ込んでいた時代のことである。
そういう時代に、若者は、誰にも見向きもされず、農村や山村で朽ちかけていた、無数の古ぼけた日本家屋の、圧倒的な質感とその驚くべき美しさを、見事に切り取り、作品の中に結晶させていたのである。
「見よ、日本の美はここにある」と。
若者は早稲田大学在学中から、写真機を担いで日本中を行脚し、6年の歳月をかけてこの大作を完成させていた。文章こそ、後に工学院大学学長になる建築史家の伊藤ていじによるものだが、その他の一切は、撮影だけでなく、企画から編集作業まで、若者がひとりで仕上げた。10巻シリーズで刊行された『日本の民家』は、後に1冊の分厚い写真集として復刻される。今それを見ても、とても20代の若者の作品とは思えない。若者が受賞した4年前、土門拳が『室生寺』で同じく毎日出版文化賞を受賞しているが、少なくとも迫力にかけて、この天下の巨匠の円熟期の作品と比べても遜色がない。
そして、そこに込められた、痛烈な文明批判。若者は一言の文字も使わずに、ただ写真の力だけで、外国かぶれの戦後社会が急速に忘れつつあった、日本オリジナルの美の在処をえぐり出して見せたのである。
かくして、『日本の民家』というその処女作ひとつで、27歳の若者は一躍、巨匠の仲間入りを果たすことになる。それも、国内だけの話ではなく。その時は若者自身も気づいてはいなかったが、この作品によって、彼の名は遠くアメリカやヨーロッパにも、さざ波のよう伝播していったのである。
この若者が、つまりこの人、二川幸夫の約半世紀前の姿である。今や世界中の建築家で、彼の名を知らぬ人はおそらくいない。
73歳になった現在も、20代の当時と変わらぬやり方で仕事を続けている。変わったことと言えば、撮影する対象が、国内から世界中の建築物へと広がったこと。
東京、ニューヨーク、ロサンゼルス、そしてパリに家を持ち、それぞれの車庫にメルセデスやポルシェを備え、自らハンドルを握り、おそらくは読者がこの文章を読んでいる今この瞬間にも、一日に何百キロという距離を走破しながら世界中を走り回り、ありとあらゆる建築物を見つめ続けている。
そして、彼の目にかなう建築物だけに、カメラを向ける。
何千キロの旅をして辿り着いた建築物であろうと、気に入らなければ金輪際、誰が何と言おうと絶対にシャッターは押さない。誰の意見も、聞かない。
その強烈な姿勢と、その確かな眼力のゆえに、彼はこの30年というもの、世界中の建築家の畏れと憧れの対象であり続けている。
なにしろ、彼が発行する日英バイリンガルの建築誌『GA』は、世界主要都市の専門書店や美術館に平積みにされ、『GA』に作品が掲載されなければ、すなわちフタガワが撮影しなければ、一流の建築家とは認められないと言われるほどなのだ。
驚くべきことに、彼は何の組織にも属していない。何の後ろ盾も持っていない。二川幸夫という一人の人間の力だけで、かくのごとき“世界的批評家”となったのだ。
批評と言っても、彼の方法論は極めてシンプルだ。
気に入れば写真を撮る、気に入らなければ無視する。
ただ、それだけのこと。
一人の写真家が撮るか否か。
そのことが、なぜにそれほど問題になるのであろう。世界には他にあまたの建築写真家が存在するにもかかわらず、である。
なぜフタガワの視線は、世界の基準になってしまうのか?
現在、この地球上には64億を超える数の人間が生きているらしい。彼とて、その64億分の1のちっぽけな存在にすぎない。しかし、その64億分の1が、ひとたびその気になれば、どれほどの仕事を成し遂げることができるか。
二川幸夫の物語とは、つまりそういう物語だ。地面に両足を踏ん張って立つ一個の人間が、いかに偉大な存在になり得るか。彼は、それを思い知らせてくれる。