『GA』という建築専門誌がある。NYでも、パリでも、ロンドンでも――教養ある人なら誰でも知っている。そして、世界の建築家たちは、その雑誌に載ることを夢見て仕事する。その『GA』は一人の日本人が作っている。二川幸夫、世界最高の建築写真家。彼は27歳でデビューしたその日から、世界の巨匠の一人になった。73歳の今も、1日24時間1年365日、建築のことだけ考えて暮らしている。1日1000㎞クルマを走らせ、世界中の建築を見つめて生きている。建築家の守護聖人にして、男子の憧れ、二川幸夫が初めて、そのベールを脱ぐ。過去の貴重なインタビューを5回にわけて振り返る3回目。【#1】【#2】※GOETHE2006年4月号掲載記事を再編
口論なんて面倒はしない、次の瞬間には床に倒してる。
その6年間の日本行脚の集大成として、二川に『日本の民家』の出版を勧めたのは、美術出版社の伝説的社主、大下正男だった。二川という前代未聞の暴れ馬に、おそらくこの世界でただ一人だけ、手綱をつけることのできた名伯楽である。
伯楽を得た暴れ馬は『日本の民家』の成功に勢いを得、『日本の寺 大徳寺』(61年)、『日本建築の根』(62年)、『日本の社 出雲』(62年)、『日本のかたち』(63年)と、猛烈なスピードで、日本建築の美の本質に肉薄する傑作を生み出していく。
中でも『日本建築の根』は、後に世界を席捲する、二川の方法論が鮮明に見える予言的名作だ。
「建築史の世界では、建物は古いほど価値があるということになっている」と、二川は言う。確かに、国宝とか、重要文化財という、古い建築物の"ランキング" は、その成立年代によって決定されている。
「けれど、美という観点から見るなら、それは間違いですよ。古いから美しいわけではない。日本人は建物そのものの美しさを基準にして、この建築物が優れているという判断をしてきていないんです」
理屈はその通りだ。けれど、そういうことが過去になされなかったのにも、理由はある。美しさというのは、抽象的で主観的な価値だ。
いったい、誰が美しいと決めるのか?
何百年も昔の建築物を前に、これは美しい、これは美しくないと、世間に向けて断言する。それは、勇気のいる行為だ。誰も、そんなことをしようとは思わなかった。
二川は、敢えてそれをやった。
「俺が決めてやる」と、29歳の若造が宣言したのだ。そして民家の時と同じように、日本中の古い建築物を見て回り、ひとつの結論に至る。日本の美という視点から見るなら、大陸の影響から脱した、鎌倉後期から室町の建築こそが重要である。すなわち、最も美しいのだ、と。こうして完成したのが『日本建築の根』という作品だった。
自分の主観のみを頼りに建築物を見るという態度は、民家の時から一貫しているが、その姿勢がこの作品で明確に打ち出された。そして後に彼は、その同じ方法論で、世界の建築界に衝撃を与える。
と、言えば格好はいいが、過去の建築物ならばともかく、生身の建築家、それも世界中の超一流を相手にそれをするのである。喧嘩腰で見る、という言葉を二川はよく使う。それは自分の主観を世界に押しつけることであって、彼の気持ちの上では、まさに喧嘩をするのと同じことなのだ。
これは余談だが、二川は仕事を抜きにしても、無類の喧嘩好きだ。たとえばバーで飲んでいて隣の客にカッとなると、口論なんて面倒な手順は一切なし、次の瞬間には、相手が床に倒れていると言って笑う。60歳を過ぎてからは、さすがに殴り合いはしなくなったらしいが……。
「いきなりパーンとやっちゃう。もう必殺ですよ(笑)。喧嘩は大好きですねえ。だって男だからね。男は殴り合いをしないと、わかり合えないよ。違いますか?」
二川にとって、喧嘩とは、相手を理解する方法なのだ。彼は暴力を否定しない。あらゆるものに喧嘩を売る。怒鳴りつける。相手の闘争心をあおり立てる。
「悔しい気持ちが大事なんだ。ほんとに殺してやりたいくらい癪に障るって気持ちがあれば、たいていのことは成し遂げられる。偉大な人間はみんな闘争心旺盛だよ。それを表に出す出さないは、別にしてね」
そういう目で見るなら、『日本の民家』に始まる一連の作品は、後に世界を相手に本格的な喧嘩をすることになる二川の、スパーリングのようなものと言えないこともない。二川の必死のスパーリングを後ろから見守っていたのが、美術出版社の大下正男だった。
その大下が、不慮の航空機事故でこの世を去った時、二川に転機が訪れる。1966年のことだった。
「僕は今回のように、雑誌とかのインタビューに応えて、自分のやってきたことを語るというのは、大嫌いなんです。だから、めったにやらない。ものすごいワガママだから。俺のやってることなんて、誰もわかりゃしないと思ってる。人間というのは、自分一人が考えたことを、自分なりにきちっとやっていけば、それでいいんだと思うんですよ。わざわざ世間に説明する必要はない。反対に他人にも、あんまり僕の世界に入ってきてほしくない。だから建築家のパーティーにも行かないし、自分が何か賞を貰っても、パーティーなんてやらない。要するに、人づきあいが悪いんだ(笑)。だけど面白いもので、そういう変人の周りには、なぜか輪をかけたような変な人が集まるの。集まるというか、僕自身そういう人が好きなんやけど(笑)、まあお互いにね。なんで今そういう話をするかと言うと、大下正男さんという人が、まさにそういう不思議な人だった。僕は作品を作る時、まずシナリオを書くんです。それを大下社長のところへ持って行く。オヤジさんはね、僕は彼をそう呼んでいたんだけど、それを机の上に置いて、こうやってページ捲りながらずーっと見てる。その間、一言も口を利かないんだ。最初の時なんて、朝10時に持って行ったんだけど、夕方の4時になってもまだ黙って見てた」
作品作りの初めにシナリオを書くのは、二川が大学時代に、映画監督を志す友人たちの影響で始めたことだ。彼の作るすべての写真集は、シナリオのストーリーにそって構成されている。だからそのつもりで彼の写真集のページを捲っていくと、そこに一編の物語が浮かび上がる。本の目次は、映画で言えばタイトルバック。タイトルが消えると、重要な最初のシーンだ。いきなり衝撃のシーンが来るかもしれないし、後に意味が明らかになる伏線のシーンかもしれない。だから彼の写真集を見る時は、気が抜けない。冒頭の1ページから巻末の1ページまで、丁寧に見ていかないと損をする。もっとも、その時、大下が何時間も二川のシナリオを捲り続けたのは、そういう理由ではなかった。
「どう思いますか、なんて聞くのは癪に障るから、こっちも朝から晩まで、そこでジーッと待ってるしかない。そしたら、1日経っちゃったんだよね。後でわかったんだけど、そういう時のオヤジさんは、気に入ってないんです。気に入らないと、何時間でも黙って見てる。いいとも悪いとも言わない。気に入った時はそんな時間をかけない。シナリオをパッと見た瞬間に『やりましょう』って仰る。まあ、その一言だけなんだけど(笑)。ほんとに喋らない方でね。ある日、ボソリと聞くの。『二川君、明日は時間あるかね』。ハイって答えたら『新幹線の切符を届けさせますから、京都へ豆腐喰いに行こう』って。翌朝東京駅で待ち合わせて、二人でグリーン車に並んで出発するんだけど、オヤジさんは、一言も話をしない。二人共京都に着くまで黙ったまんま(笑)。そういう間柄がずーっと続く。僕の本は編集部を通さないで、オヤジさんとマンツーマンで作ってたんです。そうやってずっと、オヤジさんと二人で建築の本を作っていこうと思ってた。自分が出版社興そうなんて、そんな気持ちは全然なかった」
そんな気持ちは……、と言ったとき二川の声は微かに掠れた。二川と大下は、余人には窺い知れない深い絆で結ばれていた。航空機事故の少し前、大下夫人が他界する。その葬儀を終えて間もなく、大下は妻と暮らした麹町の大邸宅から二川が住んでいる千駄ヶ谷の近くの高級マンションに越して来た。
「君と建築の本をもっとしっかり作ろうと思うからって、引っ越して来たんですよ」
当時の大下の行動を、今もどこか訝る口調で二川は言った。大下の短い言葉の言外にどんな意味が込められていたのか。それを知ることはもはや不可能だが、それにしても、と思わずにはいられない。もしその後の事故がなかったとしたら、二川と大下はどんな本を、この世に送り出していたことだろう。
その悲しみは別にしても、大下という存在を喪ったことは、二川にとって大きなダメージだった。暴れ馬は伯楽を失ったのだ。