PERSON

2023.04.30

五木ひろしは、なぜ50年以上も”横浜”を歌い続けるのか

歌手・五木ひろしが通算174枚目のシングル「だけどYOKOHAMA」をリリース。2024年で歌手生活60周年を迎えるレジェンド、五木ひろしの半生に迫る。連載1回目。

五木ひろしと横浜の深い関係

歌謡界のレジェンド、五木ひろしが通算174枚目のシングル「だけどYOKOHAMA」を2023年春にリリースした。ラテンパーカッション。ゴスペルのクワイアのようなコーラス。あらゆる音楽のテイストが感じられる。さまざまな音楽の要素をクロスした華やかな日本の歌謡曲らしいサウンドだ。

時代とともに移り変わる横浜を歌う五木には哀愁も感じる。歌詞にあるバンドホテルは1999年にクローズし、跡地にはMEGAドン・キホーテが建った。1980年代にブームになった本牧からは、いつしか人影が消えた。1990年代後半、人の流れの中心は元町や山下町から、クイーンズスクエアのある、みなとみらいエリアへと移っていった。そんな横浜への思いを五木は歌にのせている。

2023年4月発売、五木ひろしの通算174枚目のシングル「だけどYOKOHAMA」(ファイブズエンタテインメント)¥1,500。

五木が横浜を歌い続ける理由

ここで紹介するまでもないが、五木のキャリアは輝かしい。NHK紅白歌合戦出場連続50回の新記録、日本レコード大賞受賞2回。同最優秀歌唱賞3回。金賞10回。さらに、紫綬褒章、旭日小綬章を受章している。

「『だけどYOKOHAMA』は、僕の横浜シリーズの完結編と思って聴いていただきたい」

そう語る歌手・五木ひろしがブレイクしたのは1971年の「よこはま・たそがれ」だった。五木にとって、横浜は特別な街なのだ。ではなぜ、五木は横浜を歌い続けるのか――。

「今回『だけどYOKOHAMA』を歌った理由の1つには、五木寛之さんへのお祝いの思いがあります。五木寛之さんは現在90歳。卒寿を迎えられました。横浜を愛し、長く住まわれていました。一方、僕も横浜を愛しています。『よこはま・たそがれ』で世に出ることができました。横浜は先生と僕が思いを共有する街です」

歌手名、五木ひろしの“五木”も直木賞作家、五木寛之に由来する。命名は「よこはま・たそがれ」の作詞家で、やはり直木賞作家でもある山口洋子だった。山口は銀座でクラブ「姫」を経営。その店には作家が集い、常連客のなかに五木寛之もいた。

「山口さんは五木寛之さんの大ファンでした。その縁でご本人に交渉して、僕の歌手名に“五木”を使わせていただいたのです。2005年の僕の歌に『ふりむけば日本海』があります。作詞は五木寛之さん。作曲は僕。初めての共作でヒットしました。

実は同じ時期に作ったのが『だけどYOKOHAMA』でした。これも五木寛之さんが詞を書き、僕が曲をつけました。アルバムの中の1曲でしたが、五木先生も気に入ってくださっていた。そういういきさつもあり、いつかアレンジを新しくしてまた歌いたいと思い続けていました」

五木ひろしがブレイクしたきっかけ。1971年発売の「よこはま・たそがれ」
写真協力:徳間ジャパンコミュニケーションズ

五木ひろしの原点

1948年生まれで福井県の美浜で育った五木ひろしは、中学を卒業すると、歌手になるために15歳で京都へ出た。関西音楽学院に通い、後に上京し、作曲家・上原げんとの内弟子になった。ところが、将来を嘱望されていたものの、上原が心臓発作を起こして急死する。

五木は10代で拠り所を失った。そのため「よこはま・たそがれ」のヒットまで約5年、松山まさる、一条英一、三谷謙と名前を変え、ヒット曲を持たないまま歌い続けた。

「苦しくも懐かしい若手の頃、よく出かけたのが横浜でした。あるときは仲間たちと。あるときはデートで。第三京浜を飛ばしてね。横浜は流行の先端、若いころの僕にとって一番しゃれた街でした。青春時代の遊び場です。新しいファッションも、新しい音楽も、横浜に教えられました。

ジャズもロックも、新しい情報は横浜の米軍施設から日本に入ってきた時代です。山下公園に停泊する氷川丸も米兵から学んだハマジル(横浜ジルバ)も僕の青春でした。そして、昔も今も僕は第三京浜が大好きです。片道3車線で、いつもがらがら。自宅から横浜まで、20分もかかりません。通行料もリーズナブルなままでしょ。日本一の有料道路だと思っています」

横浜シリーズの完結編

新曲の営業で横浜を歩いたこともある。

「1960年代、横浜の中心は伊勢佐木町あたりでした。1969年、三谷謙の時代に『雨のヨコハマ』という曲を出して、伊勢佐木町を歌いながら歩きました」

1969年、三谷謙の時代にリリースした「雨のヨコハマ」。
写真協力:徳間ジャパンコミュニケーションズ

五木ひろしとしてヒット曲を量産するようになってから、横浜との縁はさらに深まった。

「山口洋子さんが『よこはま・たそがれ』の歌詞を書いたのはバンドホテルだとうかがっています。元町を流れる運河の、河口近くのホテルで僕の最初のヒット曲が生まれたわけです」

「よこはま・たそがれ」の歌詞にあるホテルの小部屋は、バンドホテルの客室だった。かつてホテルの旧館には「シェルガーデン」というライヴハウスがあった。若いミュージシャンが腕試しに出演する店だったが、すでにビッグネームになっていた時代の五木も出演している。

「バンドホテルは僕にとって特別な場所です。だからシェルガーデンでも歌わせてもらいました。いい夜でした。いい時代でした」

五木には「逢えて…横浜」という曲もある。

「あの曲はもともと“逢えて”ではなく“敢えて横浜”のイメージでした。2006年の歌ですが、当時横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)が弱くて。最下位が続いていました。報道番組のスポーツコーナーでベイスターズのベンチが映ると、選手も監督も厳しい表情でね。

そんなシーンのBGMにはいつも『よこはま・たそがれ』が流れていました。チームはたそがれていたからでしょう。ああ、僕の曲はこういう使われ方をするのか、と複雑な気持ちになりました。そんなときだからこそ、敢えて横浜を歌おう、と。だから“敢えて横浜”です。でも、そのままだと色気がないので『逢えて…横浜』にしました」

2006年発売の「逢えて…横浜」

「雨のヨコハマ」「よこはま・たそがれ」「逢えて…横浜」、そして「だけどYOKOHAMA」。キャリアを通して、五木は横浜を歌ってきた。五木にとって横浜はもともと特別な街だった、そして、歌い続けることで、さらに特別な街になっていった。

「カタカナ、ひらがな、漢字、ローマ字を使って横浜を歌ってきました。そして『だけどYOKOHAMA』でついに完結しました」

しかし、この新作は当初、別の曲をメインにするつもりだったという……。

※2回目に続く

五木ひろし連載はコチラ

五木ひろし/Hiroshi Itsuki
1948年生まれ。’64年にデビュー。’71年に“五木ひろし”として「よこはま・たそがれ」が大ヒット。「夜空」と「長良川艶歌」で日本レコード大賞を2度受賞。ヒット曲多数。NHK紅白歌合戦連続50回出場は新記録。芸術選奨文部科学大臣賞、紫綬褒章、旭日小綬章、NHK放送文化賞を受賞。

TEXT=神舘和典

PHOTOGRAPH=倭田宏樹

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