歌手・五木ひろしが通算174枚目のシングル「だけどYOKOHAMA」をリリース。2024年で歌手生活60周年を迎えるレジェンド五木ひろしの半生に迫る。連載2回目。#1
「人生は闘い」50年以上第一線で闘い続けている五木ひろし
2023年3月に通算174枚目のシングル「だけどYOKOHAMA」をリリースした五木ひろし。華やかであり、それでいて哀愁も感じられる歌謡ナンバーだが、当初は別の曲をメインにする予定だった。
「実はカップリング曲の『時は流れて…』をメインに考えていました。初めて自分で作詞・作曲をした曲です。『時は流れて…』は僕そのものなんですよ。前半はフランク・シナトラの『マイ・ウェイ』のように今までの歩みを歌い、後半は未来に向けて歌っています」
五木自身のありのままの気持ちを歌詞につづった。
「来年で歌手生活60年目になりますが、ここまで頑張ってきた思い、そして子供の世代、孫の世代への思いを歌詞に込めました。結婚したとき、子供ができたときなど、節目節目で僕は自分の思いを書き留めていましてね。それを作品にしています。
五木ひろしの歌手名になって52年間歌えてきたこと。それは奇跡です。これまでにたくさんの先輩がたを見てきましたけれど、50年を超えて現役で歌い続けてきた人はそうそういません。それを思うと、ありがたい」
“人”という字は、左右で組み合い、闘っている
なぜ半世紀以上も第一線で歌ってこられたのか――。
「それは、僕が闘い続けてきたからだと思います。よく、“人”という文字を書いて、たがいに支え合っていると説く人がいますよね。僕はそうは思いません。“人”という文字はね、左右でガチッと組み合い、闘っているんですよ。人生とは生き残りをかけた闘い。
子どものころから、僕はそう信じています。僕が生まれたのは戦後のベビーブームでしてね。もの心ついたときには、すべてが闘いでした。学業も闘い。スポーツも闘い。食べるのも闘いです」
五木は福井県の美浜で4人兄弟の末っ子として生まれた。採鉱夫だった父親は五木が小学校5年生とき、家族を残して失踪。母親は女手一つで4人の子を育てた。中学卒業とともに歌手になるために京都へ出た五木は経済的にもぎりぎり。常に背水の陣を敷いてきた。
「そういう世代なんです。僕のまわりには大企業の経営者がたくさんいますが、小さなお店やトラック一台から仕事を興した人ばかりですよ。みんな裸一貫からスタートしています。闘って闘って、ライバルに勝ち、切磋琢磨し合い、生き抜いて来た人ばかりです」
勘は、単なるひらめきではない
闘うことで、感性も磨かれてきた。
「厳しい体験を積み重ねると、勘が働くようになります。勘というのはね、単なるひらめきではありません。体験が多ければそれだけ判断材料が増え、勝負どころがわかるようになります。僕が芸能界入りした昭和40年代の歌謡界は、毎年500人くらい新人がデビューしました。月に30~40人です。ほとんど生き残れません。次々と淘汰されていきました。
あまりにも歌手志望者の数が多いので、敗者復活のチャンスはほとんどありません。そんな環境で、僕は歌手名、松山まさるとしての最初のデビューで躓きました。師匠である上原げんと先生の突然の死で、拠り所を失ったからです。世の中は待ってくれません。次から次へと後輩がデビューしてきます。ライバルは増える一方です。どんどん追い詰められていきました」
生活のために、クラブ歌手を始めた
経済的にも苦しく、安い部屋を求め、西巣鴨、百人町、板橋、四谷、東中野、青山、池尻……と、都内で何度も引っ越した。食べるために、クラブ歌手の仕事も始めた。最初は新宿のサパークラブでギターを弾きながら歌った。コンサートのように歌を聴かせる場ではない。ホステスたちと会話を楽しむ客のじゃまにならないように歌わなくてはならない。
「いわゆるBGMです。会話を妨げないように、お客さんの耳に心地よく響くことを心がけました。広いフロアの隅っこに小さな椅子とリズムボックスを置き、ギターの弾き語りをやっていました。お客さんたちの会話がとぎれたときに、ふっと、こちらに耳を傾けるように、と願ってね」
背を向けて話していた客がときどき振り返る。こいつ、歌、うまいな。そんな表情をしてくれる。それがよろこびだった。五木の歌の評判が広がり、歌い始めたころはがらがらだったお店に客が集まるようになった。
五木の歌に客もホステスも瞳を潤ませた。誰もが人知れずなにかしらの事情を抱え、五木の歌う“物語”に自分の人生を重ね合わせていたのだろう。
「毎日お店に行く前にレコードを買って、新しい歌を憶えました。演歌でも、ムード歌謡でも、なんでも歌いました。お客さんに語りかけるように歌ったり、物語のように歌ったり。さまざまな歌唱を試みました。毎夜毎夜クラブで歌うあの時期のおかげで、歌手としての幅が広がったと感じています」
クラブでは、技術だけではなく、歌手としての心も養われた。昭和のクラブは現代のキャバクラとは違い義理と人情の世界だった。
「ホステスさんたちは生きるために必死でした。お客さんたちも、必死に働いていました。当時はクレジットカードやキャッシュカードのない時代です。現金かツケで飲食します。ツケを払わずに消えてしまうお客さんもいて、それはまるまるホステスさんのお店への借金になります。人生の表と裏、悲哀を目の前にしていました」
“弾き語りのケンちゃん”
やがて銀座の店に移り、ギャラも上がった。弾き語り時代の歌手名は三谷謙。“弾き語りのケンちゃん”の名は東京中に広がり、クラブ歌手で1ヵ月に50万円を稼ぐようになった。大卒の初任給が約4万円の時代だ。
銀座ではデビュー前の八代亜紀と同じ店にいた時期もある。
「僕が歌う店に彼女が入って、ときどき歌っていました。ギターで伴奏してあげたこともあります」
好きな歌で食べられるようになった。しかし、もちろん、五木は満足などしていない。福井を出てきたのは、クラブで歌うためではなかった。日本中の人に自分の歌を聴かせるためだった。
このころ、日本ではカラーテレビの普及が加速していた。パナカラー、キドカラー、トリニトロンカラー……。各社がカラーテレビをつくり、価格も下がってきた。そのおり、日本テレビ系列で『全日本歌謡選手権』がスタートした。プロアマを問わず、競い合う歌番組。出演者の本気度が高く、スリリングな番組構成で、毎週25%を超える高視聴率を稼いでいた。
この人気番組に、五木は挑戦する意思を固めた。『全日本歌謡選手権』への挑戦は、半世紀を超える五木ひろしのキャリアにおいて、最初の“闘い”だったという。
※3回目に続く