歌手・五木ひろしが通算174枚目のシングル「だけどYOKOHAMA」をリリース。2024年で歌手生活60周年を迎えるレジェンド五木ひろしの半生に迫る。連載4回目。【#1】【#2】【#3】
五木ひろしが追いかけ続けた、美空ひばりの魅力
「ひろしが女でなくてよかった」
美空ひばりのこの言葉は、今も五木ひろしの支えになっている。
「冗談交じりかもしれませんけれどね。それでも、ほんの少しでも、ひばりさんが僕をライバル視してくれたならば、それは誇りです」
五木が初めてひばりの姿を見たのは、小学校4年生の夏休み。時代劇映画のロケで、ひばりが大川橋蔵らとともに福井県の美浜を訪れた。大勢のギャラリーのなかで、五木は目を輝かせた。
「5歳から、僕はひばりさんの歌を歌っていました。とくに『リンゴ追分』が得意でした。その本人を見ることができて、僕はもう有頂天ですよ」
撮影中、一瞬、ひばりと目が合った。そのとき、笑いかけられた気がした。僕は歌手になる――。はっきりと思った。
歌手名・松山まさるで日本コロムビアからデビューしたときに、会社のイベントで何度か顔を合わせたものの、美空ひばりとプライベートでの交流が始まったのは、五木ひろしになってからのこと。
「ことあるごとに声をかけていただいて、何度かご自宅にもお伺いしました。ひばりさんは、ずっと、僕の憧れでした。目標でした。あまりの歌のうまさ、あまりの声の美しさ、見事でしたよ。しかも、演歌でも、ジャズでも、ポップスでも、ブギでも、どんなテイストの歌も一流です。広い幅を持つ歌手でした。ずいぶん勉強させていただきました」
伝説の東京ドームコンサート
美空ひばりが1988年4月に東京ドームで歌った『不死鳥/美空ひばりin TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって』の映像を五木は今も観る。ひばりが晩年、肝機能が半分以下に落ちながらも東京ドームのステージに立ち、39曲を歌い上げた奇跡のコンサートだ。
「命がけで歌ったあの公演は、ひばりさんの最高のショーのひとつです。体調を崩しながらも素晴らしい歌を聴かせてくれました」
女優・和由布子との出会い
美空ひばりが東京ドーム公演を行った前月、1988年3月、五木は女優、和由布子との婚約を発表している。
1961年に撮影で会ったのが最初だったが、交際し結婚するきっかけになったのは、1968年1月に新橋演舞場で行われた「五木ひろし新春特別公演」での共演。
「座長を務める公演では、僕は朝練をやるのが常です。誰よりも先に会場入りして、稽古に励みます。あのときも毎日朝練を行っていました。その何日目からだったか、さち子(和由布子の本名)の姿に気づきました。僕の稽古を見守ってくれていました」
五木は彼女を意識するようになる。それから数日して、終演後の楽屋に置手紙があった。
「お疲れ様でございました」
ただそれだけが丁寧につづられていた。和由布子からだった。その礼節、古風なところに、五木は胸を打たれた。
「彼女は僕をリスペクトしてくれました。そして、そんな彼女を僕もリスペクトしました。僕はちょうど40歳。彼女は29歳。年齢、タイミングもよかったのでしょう。もちろん恋愛感情はありましたが、礼節や人間性に魅かれたのだと思います。
実は、僕はずっと50歳で結婚するという人生設計を思い描いていました。40代は歌にまい進しよう、と。でも、30代は、僕が思い描いていた以上に充実しました。完璧に思えたほどです。そんな思いもあり、所帯を持ち、プライベートも完璧な40代を意識しました」
新橋演舞場の公演は、1部が芝居で、2部が歌謡ショーの2部構成だった。その芝居の展開が2人の距離を縮めもした。
「恋人同士の役で、2人で人生を歩んでいくあらすじでした。現実も物語の通りになっていきました」
継承し、追いかけ続けた美空ひばり
しかし、この時期の日本は祝宴を上げられる空気ではなかった。昭和天皇の容体が悪化していた。五木夫妻は入籍し、結婚式と披露宴の延期を決める。
ひばりから電話がかかってきたのはそんなときだった。
「ひばりさんは僕たち2人を自宅に招いてくださいました。あのときの祝いの言葉、励ましの言葉、ありがたかった」
その翌日、五木の明治座の公演にひばりが現れた。
「ひろし、私からのお祝いよ」
そう言って、ピアジェのペアウォッチを手渡された。
「文字盤の裏には“From Hibari”と彫られています。家宝です」
翌1989年6月24日、ひばりはこの世を去る。
「ひばりさんを目指して頑張っていた僕は目標を失いました。追いかけて追いかけて、手をつなげそうになった気がしましたが、また離れて、天国へ行かれてしまいました。空に昇っていったかたには、もうかないません。今も思います。ひばりさんが70歳、80歳まで生きられたら、どんな歌を聴かせてくれたんだろう、と」
五木を継承する歌い手は見当たらない
美空ひばりがこの世を去っても、五木はずっとひばりを意識して歌い続けている。
「僕はひばりさんの歌を継承してきました。そして、これからも継承していきます。若い世代のシンガーのなかから、僕を継承する存在が現れてほしいとも願っています。でも、いまのところそういう歌い手は見当たりません。時代は変わり、歌も変わってきました。僕が五木ひろしとして歌い始めた1970年代は、ほとんどの歌手が歌謡曲を歌っていました。
でも今は、ロックだったり、R&Bだったり、さまざまにジャンル分けされています。だから、ミリオンヒットでも、知らない曲があるほどです。僕があまり耳にしない音楽の分野で、ひょっとしたらものすごくうまいシンガーがいるのかもしれません。これからは、ひばりさんのような、日本中すべての世代が知るような音楽は生まれないのかもしれませんね」
ひばり亡き後、2000年に息子の加藤和也氏が結婚したとき、五木はペアの時計を贈った。
※5回目に続く