歌手・五木ひろしが通算174枚目のシングル「だけどYOKOHAMA」をリリース。2024年で歌手生活60周年を迎えるレジェンド五木ひろしの半生に迫る。連載3回目。【#1】【#2】
歌手生命を賭けた『全日本歌謡選手権』出場
「デビューして58年のキャリアの間に、僕は2度進退をかけた大勝負に出ました。1つ目は歌手名、三谷謙時代の1970年。歌謡番組『全日本歌謡選手権』に出演したことです。2つ目は1979年。所属事務所から独立して五木プロモーションを興したことです」
五木ひろしはキャリアをふり返る。
讀賣テレビ系列で1970年から1976年まで放送されていた『全日本歌謡選手権』は、プロとアマチュアの垣根を取り払い、純粋に歌で対決する音楽番組。10週間勝ち抜くとグランドチャンピオンとなり、レコーディングのチャンスをつかむことができる。五木のようにデビュー後ヒット曲に恵まれない歌手にとっては再起をかける場でもあった。
審査員は、淡谷のり子、船村徹、竹中労、平尾昌晃、山口洋子……など。そうそうたる顔ぶれだ。番組のスタート時はとくに大人気で、視聴率は毎週25%を超えていた。銀座や新宿のクラブでギターの弾き語りをしていた時期に懇意にしていた地方局のディレクターに出演を勧められ、五木は悩みに悩んだ。
「10週間勝ち続けるのは並大抵ではありません。出演するのは歌手として生きるか死ぬかの勝負です。重鎮の審査員だけでなく、全国の視聴者の見る番組で敗北したら、歌手生命を断たれます」
それでも、五木は挑戦を決意した。
「歌への思いは誰にも負けないと思っていたからです。それを認めてくれる人もいました。僕は松山まさるの名で1965年にデビューしています。ヒットは出ませんでした。でも別のレコード会社から声をかけていただき、1967年に一条英一の名で再デビューしています。
それでもヒットに恵まれず、また別のレコード会社で1969年に三谷謙の名で再々デビューしました。うまくいかなくても、必ず次に誰かが手を差し延べてくれた。たとえヒットは出なくても、いつも誰かが僕の歌を聴き、応援してくれていました。そのことが僕の自信になっていました」
歌謡選手権に出演するにあたって、五木は退路を断った。
「本気で勝負するとき、男は逃げ道をつくってはいけない。銀座の店も、新宿の店も、クラブ歌手の仕事は全部辞めて臨みました。負けたら歌手生活は終わり。毎週、覚悟を決めて歌いました」
三谷謙から五木ひろしに生まれ変わる
五木は見事10週間勝ち抜いた。
「勝因の1つは、自分が心から愛する曲を選んだからだと思っています。最初に選んだ曲は、内山田洋とクール・ファイブの『噂の女』です。大好きな曲でしたから。いつも、自分の持つすべてを出し切って好きな歌を歌うだけ。すべてをかければ悔いはない。
野球にたとえるとね、9回2アウト満塁で打席に立ったら、もちろんホームランを打ちたい。投手は思い切りストレートを投げてくる。そこで思い切りバットを振っての三振ならばあきらめもつきます。見逃しや中途半端なスイングをしてしまうと、悔いが残ります。僕は毎週フルスイング。そして勝った」
歌謡選手権でグランドチャンピオンになり、番組内で強く推してくれた山口洋子・作詞、平尾昌晃・作曲による「よこはま・たそがれ」で4度目のデビューが決まる。歌手名は、五木ひろし。山口が経営する銀座の「姫」の常連客だった五木寛之からもらった。
三谷謙から五木ひろしに生まれ変わる過程で、五木は野口プロモーションに所属することになった。会長の野口修が山口と懇意にしていて、紹介された。これは珍しいケースだった。野口プロは芸能プロダクションではない。ボクシングジム。野口は1966年に日本キックボクシング協会も立ち上げている。ボクサーやキックボクサーのなかで、五木だけが歌手という、ちょっと奇妙な所帯だった。
「事務所はジムです。リングがあり、日本人選手だけではなくタイの選手もスパーリングをしていました。事務所に行くと、彼らが身体に塗るワセリンのにおいが充満しています」
当時の日本はキックボクシングが大ブーム。真空跳び膝蹴りの沢村忠が絶大な人気で『キックの鬼』というアニメの主人公になっていた。
「沢村さんも野口プロ所属です。キックボクシングだけでなく空手のチャンピオンでもありました。僕も高校時代に空手をやっていたので、練習で手合わせしたことを憶えています」
マネージャーは、セコンド!
五木は「よこはま・たそがれ」の後も破竹の勢いで突き進んだ。「長崎から船に乗って」「かもめ町みなと町」「待っている女」「夜汽車の女」……と次々とヒットを飛ばしていった。テレビの音楽番組で、五木の姿を見ないことはないほど、国民的な人気だった。そして1973年、「夜空」でレコード大賞を受賞する。
「この年は沢村さんもスポーツの賞を受賞して、野口プロ主催の大パーティーを開催しました。会場には、沢村さんと僕の氷像が飾られました。キックボクサーと歌手を同時に祝った事務所など、ほかにはなかったはずです。ただ、沢村さんは複雑な気持ちだったと思いますよ。野口プロは本来ボクシングジムで、僕は後から入った新参者でしたから。
一方、僕のほうも芸能事務所ではなくボクシングの事務所に所属していることで不自由はありました。マネージャーは芸能界のことなどまったくわかっていません。なにしろ、キックボクシングのセコンドがマネージャーを兼務していましたから。僕が移動に使うクルマの運転手はキックボクサーでした。彼は僕の用心棒も兼ねていました。そのこと自体は楽しいのですが、用心棒はあまり役に立ちません」
五木の歌には拳を握る振り付けが多い。それも周囲に格闘家が多い環境にいたからだという。
「当時は『平凡』や『明星』など芸能雑誌の取材をたくさん受け、インタビューや撮影をよく事務所でやりました。事務所はジムですから、リングがあり、トレーニング器具があります。だから、あのころの僕の写真はサンドバッグを蹴るシーンばかりでしたね」
五木、人生2度目の大勝負
五木のキャリアの2つ目の大勝負は1979年。野口プロから独立して、五木プロモーションを興した。
「徹底してトップを目指す!」
その強い意志による独立だった。「よこはま・たそがれ」の大ヒット以降、五木の歌のほとんどが山口洋子・作詞。寺山修司や岩谷時子がときどき書いているが、代表曲は山口に委ねていた。所属事務所の会長、野口修と山口の太いラインがあったからだ。
「ほかの作詞家さんに依頼するときも、山口さんのプロデュースによるものでした。作曲家さん選びも山口さんの主導です。違うテイストの歌を歌いたいと思っても、なかなか言い出せませんでした。僕が成功できたのは山口さんのおかげだからです」
五木のキャリアは順風満帆に見えた。1973年にレコード大賞を受賞した後、1975年と1976年のNHK紅白歌合戦では連続して白組のトリを務めている。1976年から3年間はアメリカにもわたり、ラスベガス公演も成功させたが、次のステージが見えてこない。
「ありとあらゆる挑戦をして、闘いとしては何の悔いもないんですけれど、作品の方向転換はできませんでした。山口さん以外の歌はほとんど歌えませんから。山口さんも自分がスカウトしたと思っていた僕がほかの人の作詞で歌うのは嫌だったのでしょう」
独立後、初めての曲「おまえとふたり」
両者の溝は深まり、五木は独立の意思を固める。五木の所属するレコード会社、徳間ジャパンのオーナー、徳間康快にお願いして、キャッシュで2億円を用意して独立にいたった。
「恩を忘れた裏切り者」
新聞の見出しで五木は指摘された。
「独立した最初の曲が勝負でした。あそこでダメになったら、僕の人生は負けです。山口さんや野口社長の判断、感覚が正しかったことになります」
五木プロモーション所属としての1曲目は「おまえとふたり」。作詞・たかたかし、作曲・木村好夫。王道の演歌で、120万枚を超えるセールスとなった。2023年の時点で、五木最大のヒット曲だ。
「ミリオンセラーでした。大衆が支持してくれたわけです。日本中のリスナーが応援してくれました。歌手の評価は、最後は大衆に委ねる。それは不変です。僕は常々、歌手は大衆があってこそ、聴く人があってこそ、と言っていました。それは真実でした。ファンの皆さん、リスナーの皆さんの存在をあの時ほど実感したことはありません。あのときの勝負に勝てたから、第二期黄金時代を築くことができました」
第二期黄金時代、そして再会
徳間康快に借りた2億円は1年で返済した。
野口との再会は10年後。野口の母の葬儀に五木が駆け付けた。その2年後。五木のデビュー20周年を祝うパーティーには野口が真っ先にやってきて、2人は硬く手を握り合った。
山口とも音信不通が続いたが、10年後に再び組んでシングルレコードをつくることになった。タイトルは「面影の郷」。作詞・山口洋子、作曲・猪俣公章。B面の「渚の女」は山口が詞を書き、五木が曲を書いた。
「再開するまでちょっと時は経ちましたけどね。でも、独立するという決断は間違っていませんでした。あそこからまたヒットを連発していけましたから。あれでよかった。僕は山口さんや野口会長への恩をずっと感じていました。『全日本歌謡選手権』への挑戦。野口プロからの独立。この2つは間違いなく、僕の人生を変えたもっとも大きな勝負でした」
※4回目に続く