北海道・富良野の農業一家に生まれ、24歳で東京の写真学校へ。圧倒的スピードで広告業界を駆け上がり、60年以上第一線で活躍する超人写真家・操上和美。写真界の巨星の原点と進化を描く渾身の評伝『今という永遠 写真家・操上和美の90年』(著・石川拓治)から一部抜粋して紹介する。【その他の記事はこちら】

馬は一瞬で、操上を主人と認めた
「モンゴルの遊牧民の子どもくらい馬に乗るのが上手かったんですね」
僕がそう言うと、操上は首を振った。
「いや、俺の方が上手かったと思うよ」
冗談めかした口調だが、本気で言っているのはわかった。前にも書いたが、馬の話になると一歩も譲らない。ジンガロの撮影をしたときも思ったそうだ。
「ああ、この程度なら自分の方が上手く乗れる」
ジンガロは世界にその名を知られたフランスの騎馬劇団だ。
傲慢な人ではない。むしろ他のことでは極めて謙虚だ。写真家としての業績でさえも、自分はたいしたことは何もしていないと言う。
「ここまでなんとか仕事を続けられただけのことです」
馬だけは話が違う。
世界中を旅して来た人だから、馬に関してもいくつもの思い出がある。
モロッコの砂漠で武器商人と馬に乗って鷹狩りをしたこともあれば、カリフォルニアの草原で西部劇まがいの騎乗をしてモデルを驚かせたこともある。
日本中央競馬会(JRA)のシリーズ広告で木村拓哉と馬を1年間撮影することになった、その初日のエピソードも操上らしい。
ロケ現場は世田谷のJRA馬事公苑だった。幻となった1940年の東京オリンピック馬術競技会場用地として出発し、1964年と2021年の二度の東京オリンピックで馬場馬術競技が開催された、日本馬術の聖地だ。
木村拓哉と操上を取り囲んだのは、JRAの関係者一同だった。
その日撮影する名馬を前に、担当者が注意事項の説明を始める。馬の撮影には危険が伴う。馬の後ろに立ってはいけない、急な動作で馬を驚かせてはいけない……。説明は長々としたものになりそうだったが、相手は馬の素人だ。馬に乗る俳優はともかく、馬の周囲で撮影する写真家には特に念入りに話して聞かせなければならない。万が一の事故も避けるための当然の配慮だった。
いつまでも続きそうな担当者の話を唐突に打ち切ったのは、その肝心の写真家の行動だった。話が終わらぬうちにスタスタと歩き出し、馬の前脚に肩を寄せ、蹄を無造作につかんで持ち上げたのだ。蹄鉄に泥や石が詰まっていないかを確認するための日常的な動作で、写真家が馬を知る人であることはそれで明らかになったのだが、担当者がそれきり撮影に干渉しなくなったのは写真家よりも、むしろ馬の様子を見たからだった。
見知らぬ人間が近づいて、いきなり蹄を持ち上げても、馬は落ち着いていて、他の3本の脚をほとんど微動だにさせなかった。蹄を持ち上げた写真家を信頼し切ってその手に体重を預けていた。馬は一瞬で、写真家を主人と認めたのだ。
中学生の時は馬と喧嘩
中学生になると、和美は農耕馬の調教も任されるようになった。
馬の寿命は20年から30年だが、農耕馬としての現役時代はそう長くない。松太郎(祖父)や俊治(父)は比較的若くして無理のきかない身体になったが、馬も過酷な使役に耐えられる期間は限られている。和美の家でも、数年ごとに馬を替えた。
現代の農家も農機具を定期的に更新する。たとえばコンバインの耐用年数は7年。税制上の決め事だが、機械も長年使えば故障しやすくなる。農機具の故障は時に死活問題だ。稲刈りから脱穀まで1台でこなすコンバインが収穫期に使えなくなるなんて事態は、農家にとっては悪夢以外の何物でもない。
農機具が古くなれば新製品に買い替える。農耕馬を入れ替えるのも理由は同じだけれど、決定的な違いがある。
新しい農機具はエンジンをかければすぐに使える。新型ならマニュアルを読む必要があるかもしれないし、慣れるにはある程度の時間がかかるかもしれない。
けれど、馬はそれどころではない。若い馬はそのままでは農耕馬としては使いものにならないのだ。
馬は草原で進化した。森林で暮らしていた馬の祖先が、森林が後退して広がった草原に進出して適応する過程で、遠い昔には5本あった指が1本に融合し、その先端に巨大な爪、つまり蹄を発達させた。草原をより速く走るための進化だ。
走るのが馬の本性なのだ。人はその馬に犂(すき)を牽かせて土を耕す。荷物を積んだ馬橇(うまそり)をつなぐ。馬からすれば本能に逆らう行動で、人間の指示通りに従順に農作業をするように慣らすには、訓練が必要だ。しかも馬には1頭1頭個性がある。それぞれの馬の性質を見極める目があって初めて調教は成立する。農耕馬の調教には経験と知識が必要で、本来は馬の扱いを熟知した大人の仕事だ。
和美はその仕事を楽々とこなした。
仕事というより、彼にとっては遊びだった。
「馬を調教するのが好きだった」と、操上は言う。
大切なのは、誰がボスかをわからせることだ。
馬は群れで生きる。そして群れにはリーダーがいる。仲間への共感とリーダーへの服従が馬の本能で、人はこの本能を利用して馬と心を通わせ、支配する。馬が服従するのはもちろん、リーダーと認めた人間だけだ。
中学生の彼が、それをどうやって認めさせたのか。
「喧嘩するんです」
若くて力の強い馬は対抗心も激しい。調教は馬からすれば主導権争いだから、支配されそうになると反抗して暴れる。
雄馬同士の喧嘩と同じように、人間に戦いを挑む。馬は嚙みつき、蹴り上げ、竿立ちになる。両前脚を高く上げ、後ろ脚だけで立ち上がって相手を威嚇する。
その竿立ちになったときがチャンスだと操上は言う。
「馬が立ち上がって向かって来たら、前脚をつかまえて馬をバーンとひっくり返す」
馬を倒してどうするのか。
「馬の頭をおさえつけて、目を見ながら『言うことをきけ』って諭すんです。それで反抗しなくなる。俺と喧嘩しても勝てないってわかるから」
子どもの頃から、呼べば馬が走ってくるように仕込んでいたくらいだ。調教という言葉を知る前から、和美は馬を調教していた。人間の兄弟のように、馬を相手に組んず解(ほぐ)れつ、喧嘩しながら和美少年は成長した。
そういうことを誰に教えられたわけでもないというのは、彼が乗馬の常識に囚われなかったということでもある。和美少年はおよそ考えられるすべてのことを試してみたに違いない。
裸足で馬の背に立つのも、馬の前脚をつかんで倒すのも。馬の調教に関するどんな教科書にも、馬をひっくり返すなんて話は出てこないはずだ。
だからこそ遊牧民の子どもより、ジンガロの団員より、自分の方が上手いと本気で言うのだろう。中学を卒業して農作業を本格的に手伝うようになると、農耕馬の調教だけでは物足りなくなった。輓馬(ばんば)の調教を始める。
荷車や荷橇を引く馬を輓馬と呼ぶ。操上家の農耕馬もその意味では輓馬だ。少々ややこしいが、その輓馬の競走も輓馬と呼ばれる。
輓馬は現在も帯広市で開催されている公営競技のばんえい競馬のルーツだ。農家が自慢の輓馬を競走させたのが始まりで、和美の時代には村の祭りなどでこの草輓馬が盛んに開催されていた。
松太郎は草競馬だったが、和美は草輓馬に出場するようになった。輓馬の季節が近づくと、馬に馬橇をつないで訓練を始める。どこそこの村や町の祭りで輓馬が開催されるという情報が入ると、馬に荷車を引かせて出かけていく。
「いちばん遠くは美瑛くらいまで行った。馬に引かせた荷車に乗って行くから片道4時間はかかる。朝早く出発して、輓馬に出場して、終わったら荷車に夜通し揺られて家に帰るんです、馬は夜目が利くから。家に着くのが翌日の明け方になることもよくあった。レースはけっこう勝ったよ。勝てばいくばくかの賞金と、それから幟旗(のぼりばた)が貰える。その幟旗を荷車に挿して家に帰る。これが気持ちいいんだ」
輓馬のことで父親にとやかく言われたことはない。輓馬は村祭りの行事だから、農閑期に行われることが多かった。田や畑の仕事が一段落すると、休む間もなく馬の訓練を始め、輓馬に出場するために遠くの村や町まで出かけた。
「賞金稼ぎだ」と言って操上は笑う。だが、それだけが理由ではない。

