北海道・富良野の農業一家に生まれ、24歳で東京の写真学校へ。圧倒的スピードで広告業界を駆け上がり、60年以上第一線で活躍する超人写真家・操上和美。写真界の巨星の原点と進化を描く渾身の評伝『今という永遠 写真家・操上和美の90年』(著・石川拓治)から一部抜粋して紹介する。【その他の記事はこちら】

北海道富良野の農家の次男坊。中学卒業後、家業の農業に従事
操上和美さんの事務所「キャメル」は、東京白金のプラチナ通りにある。
コンクリート打ち放しのビルで、1階は愛車ポルシェを格納したガレージ、そのガレージの隣に4階まで一直線に長い階段が続いている。
階段を1階分のぼるごとに踊り場があって、2階の踊り場のドアはスタジオへ、3階のドアはオフィスと暗室に通じている。
階段はさらに上階の住居部分へと続いているが、4階以上にのぼったことはない。操上の話を聞くのは、3階のオフィスと決まっていた。
僕はいつも約束の時間きっかりに、3階のオフィスに辿り着くように心がけていた。そういう取り決めがあったわけではない。
けれど、操上さんと会うならそれくらいの厳密さというか、つまり13時と約束したら12時59分でも13時1分でもなく、13時ちょうどにドアの横の呼び鈴を押すくらいの、折り目正しさが必要な気がしたのだ。
もっとも、実際に呼び鈴を押すことはめったにない。
操上和美という人には、背筋を真っ直ぐに伸ばして会わなきゃいけないという気持ちにさせる、なんと言えばいいか、威厳のようなものがある。僕のような柔弱な人間でさえ、せめてこの人の前に出るときには、真っ当な人間であらねばと思わせられる覚悟といえばいいのか、生きることに対する真摯さといえばいいか。つまりは威厳としか表現しようのない、ある気配をいつも身にまとっている。
友人は「神だ」と言った。
後にカメラマンになったその友人が高校生だった1970年代後半、操上和美は既にカリスマの1人だった。
広告写真専門誌に作品が掲載されるたびに書店に走り、操上の写真を貪るように見たと友人は言う。有名写真家が綺羅星のごとく出現したあの時代にあっても、「操上さんは特別だった」と。
操上は、まず広告写真家として世に出た。
30代にして、原宿のセントラルアパートにいくつもスタジオを構え、斬新な広告作品を次々に発表して一躍業界のスターになった。
写真学校に入学するために上京したとき、操上は24歳を過ぎていた。
それ以前は、中学校を卒業してからずっと家業の農業に従事していた。高校には進学しなかった。勉強するのは嫌いではなかったし、成績も悪くはなかった。高校に進学しなかったのには理由がある。
簡単に言えば、人手が足りなかった。
操上は北海道富良野の農家の次男坊で、下に幼い弟と妹が合わせて5人いた。祖父と父母、7人の子どもに、未婚の叔父叔母の同居する大家族だ。
農地は7町歩あまりあった。
2万1000坪。月並みな比較をするなら東京ドーム1・4個分。トラクターもコンバインも存在していなかった時代の話だ。広大な農地を大家族と数頭の馬の力で耕作していた。
ところが、両親が相次いで結核に侵された。太平洋戦争が終わる頃、父親は奇跡的に病魔を克服したが、まだ重労働に耐えられる身体ではなかった。母親は脊椎まで結核菌に蝕まれ、寝たきりになった。
2歳年上の兄、幸男(ゆきお)は高校進学をせず家業を支えた。
教育熱心だった父親は「和美、お前はせめて夜間高校へ行ってはどうか」と言ってくれたが、操上は兄に倣った。
「勉強は自分でするからいい」
父と兄を助けて働くだけ働いて、下の弟を大学にまで進学させた後に、写真家を志して上京した。
それが24歳の春のこと。
それから数年にして業界の注目を浴びる存在となり、その時代から今にいたるまで60年以上も超一流の仕事を続けている。
2023年には、「EYEVAN」の眼鏡をかけた50人の有名人の肖像写真が地下鉄表参道駅と周辺地域を覆いつくして街行く人々を驚かせた。2025年6月には記録的なヒット作となった映画『国宝』に主演した吉沢亮の印象的なポスターが街を飾った。
言うまでもないが、すべて操上の作品だ。
往年の巨匠ではない。
90歳となる今も、文字通りの第一線で活躍する現役の写真家なのだ。
呼び鈴をめったに押さないのは、時間通りに着いて呼び鈴に手をのばしかけたところでドアが内側に開き、アシスタントの若者の笑顔に迎えられるからだ。
オフィス内の壁も打ち放しのコンクリートで、シンプルな額装の写真がぐるりと部屋を囲んでいる。壁面に掛けられている写真もあれば、壁に造りつけられたカウンターに載っている写真も、フローリングの床に直じかに置かれている写真もある。多くがモノクロームの肖像写真だ。操上自身の作品もあれば、他の人の作品もある。
操上は部屋の奥、黒い打ち合わせテーブルのあたりにいる。通りに面した窓際の席が定位置で、僕はその向かいの椅子を勧められる。ニューヨーク近代美術館所蔵の名作、カッシーナのル・コルビュジェLC7だ。
操上が座り、僕が座る。
濃いコーヒーの香りが漂う。
エスプレッソが運ばれる。
分厚いステンレス製のデミタスカップはここでしか見たことがない。通りに面した横長の窓から射し込む午後の光が、テーブルの上の小物たちに反射している。
背後の柱には、操上が撮影したキース・リチャーズのポートレートが掛かっている。だからいつも操上とキースの2人に見つめられながら取材をしているような気分になる。
左側の壁にはウィリアム・クラインがニューヨークの街角で撮影した有名な作品が掛かっている。悪ガキがピストルの銃口を真っ直ぐ僕の左のこめかみに向けている。
操上の心臓は右側にある。心臓だけでなく、すべての内臓が鏡に映した像のように完全に左右逆転している。中学校の健康診断でレントゲン撮影をしてしばらくして、保健所から知らせが来て、再検査を受けて判明したのだそうだ。
「『どれくらい生きられますか?』って、医者に聞いた覚えがある。親父とお袋のことがあったから、自分の身体にも不都合があったんだって思った。だけど、医者が言うには特に不都合はないって話だった。何千人かに1人、そういう人がいるって」
特別な人間だということは、中学生の操上のアイデンティティになったのだろうか。
「横尾忠則さんに心臓が右にあるって言ったら、『クリちゃん、俺だったらその話宣伝に使うよ』って言われたけど。中学生の自分には、そんな余裕はなかった。いつまで生きられるんだろうって、直感的に思ったくらいだから。ただ、あのとき医者が言ったことは間違ってなかったらしい。27歳で独立して、この歳になるまで仕事を続けてこられたわけだから」
操上の声は若い頃に比べると、少しだけ掠れている。
その掠れは、長年にわたって丁寧に使い込まれた革製品のような風合いを帯びて、操上の声の深みと調和している。
「考えてみれば、独立するまでは結構早かったね。なにしろ、その3年前までは北海道で農業に明け暮れてたんだから。写真のことは、なにも知らなかった。うちの家は曽祖父の世代から半世紀、富良野で稲作をしていたんです」
漆黒のテーブルの向こうでエスプレッソを一啜りすると、操上はそんな風に話を始めた。いつものように折り目正しく。
操上の大伯父は屯田兵だった。

