北海道・富良野の農業一家に生まれ、24歳で東京の写真学校へ。圧倒的スピードで広告業界を駆け上がり、60年以上第一線で活躍する超人写真家・操上和美。写真界の巨星の原点と進化を描く渾身の評伝『今という永遠 写真家・操上和美の90年』(著・石川拓治)から一部抜粋して紹介する。【その他の記事はこちら】

建築雑誌を片っ端から読み、新宿の名画座に入り浸った
(東京綜合写真専門学校で)重森弘淹から学んだいちばん重要なことは何か、と質問したときのことだ。
「見ること、でしょうね」
しばらく考えてから、操上はそう答えた。
「写真って撮ることじゃなくて、見ることなんです。それは私が今もよく言っていることなんだけど……」
操上は、何かを考えながら話していた。記憶の底を覗き込んで、写真に目覚め始めたばかりの頃の、若い自分と対話でもしているようだった。
「写真は技術よりも、観察することが大切なんだって。その基本を最初に教わったのは重森さんからだった気がします」
写真は世界を切り取る。
写真はなんでも写せるが、1枚の写真に写るのは切り取られた世界の一部だ。
世界を切り取るのが、写真家の仕事だ。
問題は、世界のどこを切り取るかだ。
それはオモチャの拳銃をつきつける少年かもしれない。白人の赤ん坊を抱いた黒人の女性かもしれない。あるいはヴァイオリンに見立てた女の裸の背中かもしれない。
なんであれ、それが「見えて」いなければ切り取ることはできない。
人は誰もが世界を知ったつもりで生きている。けれど、目の前にあるものならなにもかもが「見えて」いるわけではない。
鳥の目にガラスが見えないのは、鳥がガラスを知らないからだ。古生物学を知らなければ、何千万年前の恐竜の歯もただの河原の石ころだ。
知らないものは見えない。
現代美術を知らなければ、ポロックの絵も飛び散った絵の具でしかない。茶の湯を知らなければ、国宝も古いいびつな茶碗でしかない。
たとえカメラのファインダーが決定的瞬間をとらえても、それが見えていなければシャッターを切ることはできないのだ。
和美は世界を知らなかった。知らないことは知っていたけれど、知らなければ見えないことを知ったのは、学校に通うようになってからだ。
建築雑誌を片っ端から読むようになって、建築の美しさが見えるようになった。新宿の名画座に入り浸りになって、ゴダールやトリュフォーの映画の良さが見えるようになった。
ロバート・フランクの『THE AMERICANS』が操上のバイブルになったのもこの頃だ。
「ロバート・フランクの写真は、単なるドキュメンタリーじゃない。アメリカのあの時代をクリティックしてるには違いないんだけど、人を見る目が優しい。批評しながら共感している。写真家というより、詩人のような人なんです」
見えるようになればなるだけ、重森の話すことが理解できた。
見えなければ、撮れない。
写真とは、世界を見る行為だ。
見ること自体が、写真家の表現なのだ。
そのことを意識してシャッターを切っているかどうかが、プロとアマチュアの違いだ。世界のどこを切り取るか。カメラをどこに向けるか。何を見るか。写真家の存在は、そこにかかっている。
だからこそ、和美は世界を知らなければならなかった。砂漠を歩いてきた人が水を貪り飲むように、文化を吸収しなければならなかった。
和美はそうして、少しずつ世界に対する目を見開いていった。
そういう時期のことだ。
ひとつだけ、はっきりと見えるようになったことがあった。
「彼らはアマチュアだってことに気がついた」
同級生たちのことだ。カメラのことも写真のことも、彼らは驚くほどよく知っていた。誰も彼もが天才だった。和美の目標の前に立ちはだかる大きな壁だった。その壁が幻だったことを、ある日突然理解した。
「彼らは確かになんでもよく知っていて、いろんな情報にも通じている。俺はなにも知らない。こんなやつらにどうしたら追いつけるんだろうってずっと思ってたけど、写真はそういうものじゃなかった。
親父は夜明け前に起きて水田の見回りをしていました。田植えが終わった頃から、8月中旬に田の水を落とすまで、毎朝あの広い水田を見回って、1枚1枚全部の田んぼの水位をミリ単位で調節するんです。水見回りっていうんだけど、その年の米の収穫を左右する重要な農作業です。水温が高くなりそうなときは水を浅く、低くなりそうなら深くするのが基本だけど、天気予報は今みたいに正確じゃないから、すべて親父が自分で判断する。
今日は風が吹きそうだとか、雨が降りそうだとか、稲の様子はどうだとか。それこそ目を皿のようにして、空を見て雲を見て、風や湿気を肌で感じて、稲の生育を見定めて、細かく水位を調節する。稲がまだ育たないうちは、水位が浅過ぎると風で根が浮く。深くし過ぎると、水温が上がって生育が悪くなる。ほんとに微妙な調整なんだけど、その何ミリかの水位の上げ下げを、親父は毎朝毎夕コツコツとやっていた。そういう親父の姿をずっと見ていたことを思い出したんです」
富良野時代に自分がその仕事を任されたことは一度もなかったと、操上は言う。水見回りは経験と知識を必要とする難しい仕事だからだ。ただ、水見回りをする父親の姿は脳裏に焼きついていた。
「富良野にいた頃はそんな風に考えたことはなかったけれど、親父も観察をしていたんです。農業と写真とでは、観察する対象も観察する理由も違う。写真で観察するっていうのは、観察してカメラという機械で瞬間に向かってシャッターを切るっていうことだから。
まったく別のことをやっているんだけど、重要なことは同じだと。農業の場合は自分で観察して、自分で判断したことに、どう対処するか。親父はいつもひとつひとつの判断について、まめに対処してました。億劫がらずに行動してた。生活がかかっているわけだから、下手したら命までかかってるわけだから、あの厳しい自然の中ではね。それは親父からしたら当然のことなんだけど、それこそが仕事というものだろうと。
水見回りをやらせてもらったことはないけど、億劫がらずに行動するっていうことは、富良野の暮らしで自分にも身についてる。仕事をするのがどういうことかっていうことを、俺はちゃんとわかってる。知らないことばかりに目がいって、あの10年間自分は何もしてないと思い込んでたけど、そうじゃなかった。だから俺は大丈夫だと。
学校の友人たちは、写真が好きなんです。悪いことじゃない。でも彼らは好きで写真を撮ってる。好きな写真を好きなように撮ってる。だから俺は彼らに勝てるなと。俺は好きでも嫌いでもなくて必死で勉強してるんだから、って。まあ、そういうことに気がついた」
それが和美の最初の開眼だった。

