北海道・富良野の農業一家に生まれ、24歳で東京の写真学校へ。圧倒的スピードで広告業界を駆け上がり、60年以上第一線で活躍する超人写真家・操上和美。写真界の巨星の原点と進化を描く渾身の評伝『今という永遠 写真家・操上和美の90年』(著・石川拓治)から一部抜粋して紹介する。【その他の記事はこちら】

90歳を迎えた今もカメラから見つめるものとは
80年の歳月が流れたにもかかわらず、その光景は少しも色褪せることなく彼の記憶に焼きついている。
田の畦道に敷いた筵(むしろ)に、後ろ手をついて座る母親の姿だ。
あたりに人の気配はない。
稲穂の海が、はるか遠くに青く霞む山々の麓まで続いている。
双肌(もろはだ)脱ぎの母親が上半身全体で日の光を受け、目を閉じてじっとしている。西に傾きかけた太陽の光が、肩や乳房の産毛に反射して金色に輝いていた。
その日のことを忘れないのは、女性の身体の美しさを人生で初めて意識した日だからだ。彼はまだ小学生だったけれど、母の裸身を美しいと思った。
母親が裸だったのは、菌を殺すには日光浴が効くと言われたからだ。
「ゴザを持っていって、いちばん日当たりのいい畦道のところに敷いて、バッと上半身裸になって陽を浴びるんです。私はたいていそばにいて、その日向ぼっこを見るともなく見ていました。西日を浴びて反射しているから、すごく綺麗なんです。あの時代の女性としては背も高い方だったし。やっぱり若い女性だし。30代の半ばくらいだったかな。綺麗だなあって、いつも思ってた」
母親が結核に侵されていることがはっきりしたのは、いちばん下の弟を産んで間もない頃だった。病名は脊椎カリエス。母の脊椎に結核菌が棲みついた。北大病院に40日間入院し、その後は自宅療養となった。
自宅に戻ったばかりの頃は、その日のように、屋外に出て日の光を浴びることもできたが、やがて脊椎に巣くった菌に蝕まれた組織が化膿して神経を圧迫するようになり、這って歩くことさえできなくなった。
寝たきりになった母親の世話を、彼はした。母親が世界のすべてであるような年頃の少年にだけ可能な、大人には真似することのできない真摯さと繊細さで。
「膿を出せるように、医者が母親の背骨に穴を開けたんです。その穴から溜まった膿をしぼり出すのも私の仕事だった。それから下の世話も、少なくとも昼の間は私がやった」
だから学校の放課後に友達と遊んだ記憶がない。
授業が終わると毎日走って家に帰った。
家に戻ったら、湯を沸かして洗面器に汲み母親の枕元に運ぶ。お襁褓(むつ)を外し、お湯で手拭いを絞り、汚れた場所を拭く。母親の背骨に開いた穴を塞いだガーゼを外して溜まった膿をしぼり、綺麗に拭き清める。新しいお襁褓をあてがい、身支度を整えてやる。血と膿で汚れたガーゼや包帯は、裏庭で火を焚いて煮沸消毒してから、川の流れの中で幾度もすすぐ。夏の酷暑の日も、冬の極寒の日も。川が凍れば氷を割り、その下の手の切れるような冷たい水で洗った。洗って綺麗にしないと母親の背中の傷口を清潔なガーゼと包帯で覆ってやることができないからだ。
母親が寝たきりになって1年半あまり、そういう仕事を毎日続けた。嫌だとかやめたいとか思ったことはないのかと問うと、記憶の底を探すようにしばらく黙り込んでから、ポツリと言った。
「そんなことは一度も思わなかった」
まだ小学生だったけれど、この人のことだから、おそらく手際良く完璧にその仕事をやり遂げたに違いない。
「お湯で手拭いを温めたり、子どもなりに考えて一所懸命やってはいたけどね、お袋はその手拭いが『熱い』とか『冷たい』とか、しょっちゅう文句を言うんです。腹が立たなかったかって? そんなこと心の片隅にもかすめなかった。お袋が可哀想で。何が足りないんだろうっていつも考えてた」
結核菌は少しずつ、確実に母親の肉体を蝕んでいった。特効薬のストレプトマイシンがその何年か前にアメリカで発見されてはいたが、日本国内での製造はまだ始まっていない。脊椎カリエスは、この時代、治療することの困難な病だった。大人たちはおそらく誰もが、その先に何が待っているか知っていた。
彼だけは、それを信じなかった。
今、目の前にいる母親は生きていたから。
時という冷酷な歯車に巻き込まれて、確実に衰弱していく母親の肉体は、それでも美しかったから。
いや、それでもというよりも。
彼にとっては、そうしてでも生きてくれている母親の姿こそが、この世でもっとも美しく尊いものだった。
「死にたくない」
ある日、母親は唐突にそう言って涙をこぼした。
「死にたくない、死にたくない」
この家で、彼が最初に聞いた死という言葉がそれだった。大人たちは誰もその言葉を口にしなかった。
母親は知っていた。死という得体の知れないなにかに、自分がのみこまれようとしているのを知っていた。
病床で天井を見上げながら、母親はその深淵を覗き込んでいた。
母親にかけてやるどんな言葉も思いつくことができなくて、少年は家を飛び出すしかなかった。川まで走って、顔を洗った。何度も何度も洗った。
母親にも家の誰にも、この涙を見せてはならないと思った。
そしてその小さな身体ひとつで、恐ろしい運命と母親の間に立ちはだかろうとした。
砂時計の砂のように指の間から流れ落ちて二度と戻らない時間を、なんとかして堰き止めようとした。
80年の歳月が流れた今も、彼は同じ場所に立って瞬間という時の断面を見つめている。この瞬間が永遠であることを証明しようとしている。
操上和美にとって、カメラはそのための道具だ。

