最近、古書市で手に取った1冊の展覧会図録。今からちょうど50年前に、そこからさらにおよそ500年前に描かれた絵を見たことで、自分の中でいろいろなことが動き出した気がする。数年後にはヨーロッパを旅行し、その絵に再会し、ほかにも多くの絵を見た。それからしばらくして、結局、雑誌の美術記者になって、その延長に今がある。■連載「アートというお買い物」とは
レオナルド・ダ・ヴィンチが死ぬまで手放さなかったモナ・リザ
先日ある古書市で1974年の「モナ・リザ展」の図録を見つけて、お、この展覧会は見たやつだと思って買った。1,000円だった。これはもう歴史上の話、あるいは村の長老が語るような伝説みたいなものかもしれないが、レオナルド・ダ・ヴィンチの名作、世界で最も有名な絵画と言ってもいいあの《モナ・リザ、LA JOCONDE》がはるばる日本に来たことがあったのだ。
モナ・リザについて今さらながら少し書いておくと、レオナルド・ダ・ヴィンチによる女性の上半身肖像画。ポプラ板に油彩で描かれた板絵で、1503年から1506年に制作されたと言われる。モデルはフィレンツェの裕福な絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ・デル・ジョコンド。注文された絵だったが、レオナルド・ダ・ヴィンチは死ぬまで手を入れ続けた。つまり手放さなかった。
レオナルド没後、彼の弟子のサライが相続し、のちにフランス王フランソワ1世が購入し、現在は国有財産である。盗難されたことがあり、そのときはアポリネールやピカソにも疑いがかけられたが、真犯人はイタリアの国粋主義者で、この絵がフランスにあることが許せなかったらしい。1962年から63年にアメリカのワシントンDCとニューヨーク、1974年に東京とモスクワでの展覧会に貸し出された。
その日本での展覧会は1974年4月20日から6月10日まで東京国立博物館で開催。主催者は文化庁、東京国立博物館、国立西洋美術館となっていて、国立西洋美術館の発表によれば観客は1,505,239人だったそうである。これは単独の美術館で行われた展覧会での一位だ。ちなみに1965年、東京、京都、福岡の3会場を巡回した「ツタンカーメン展」の総入場者数は約295万人でこれが日本の展覧会の動員記録トップとなっている。
1964年に東京、京都、大阪、名古屋会場を巡回した「ミロのヴィーナス展」が約175万人で、以上の3展が長い間トップ3と言われてきたが、2012年には「ツタンカーメン展~黄金の秘宝と少年王の真実」が開催され、東京・上野の森美術館と大阪・天保山特設ギャラリーを合わせて208万人を動員した。みんな、どれだけツタンカーメンが好きなのかとも思う。あと、もう一つ、1970年、大阪での日本万国博覧会のときに「万国博美術館展」が開催されて、観客1,775,173人が入館したという記録があるがこちらは会期が半年と長いことを考慮に入れなければならない。
ともかく、「モナ・リザ展」は日本を挙げての大騒ぎだったことを言いたかったのだが、そのおよそ150万人の観客の中に当時16歳の高校生だった僕も含まれていた。当時は今ほど多くの美術館はなく、たとえば印象派の展覧会などはデパートに見に行くのが当たり前だった。各デパートは新聞社やテレビ局と組んで、印象派の展覧会などを開催していた。
しかし、モナ・リザである。ほんの100年ほど前の印象派の絵とは生き延び、愛されてきた時間の尺が違う。そして、展覧会の規模はじめ、美術による波及力、影響力があまりにも違った。たった1枚の絵がこれだけの人を集める。最終日には東京国立博物館から上野駅まで人の列が繋がったらしい。絵はこんなにも人々を魅了するものなのだと知って、僕はますます絵を見る人になろうと思った。
そのとき見たモナ・リザは厚いガラスのずっと奥の方にあり、照明で輝いていたが、立ち止まって見たりすることはできず、2時間くらい並んで、やっと絵と対面できたのだが、それは一瞬のことだった。絵が良かったとか、描写の技術がすごいとかそんな感想は持ちようもなく、抱いた感想は「いつか一度でいいから、パリに行って、ルーヴル美術館であらためてゆっくりモナ・リザを見たい」ということだった。
高校生だった僕は、ベストセラー作家の五木寛之さんの小説やエッセイを読んでいて、自分も大学生とかになったら、シベリア鉄道ででもいいからヨーロッパに行ってみたいなどと少し考えていたような気もする。ロシア文学を学んだ五木さんはソ連(当時)や北欧を舞台にした小説を書いて、大変な人気があった。
いつか一度はヨーロッパに行ってみたいと思っていた。上野でモナ・リザを見た5年後、1年の浪人生活もあったが、大学2年生になった僕は意外にあっさり彼の地を旅行していた。しかもシベリア鉄道ではなく、その頃主流だった、アンカレッジ経由北回りのフライトを使って。今、調べると1ドルが195円くらいと書いてある。自分の記憶をたどると、フランスでは1フランが約50円、英国では1ポンドが約500円だった気がする。
その旅でモナ・リザとの対面を果たした。若い頃の夢は意外にもあっさり叶うものである。ルーヴルでもこの絵の周りには大勢の人が集まっていたが東京とは違って立ち止まってみられた。
さて、今回、東京の「モナ・リザ展」の図録を見つけた話だ。ページをめくると、この展覧会があらためて国家的事業だったことがわかる。会期などの開催概要に続くのは、フランス大統領ジョルジュ・ポンピドゥ氏の言葉のフランス語原文とサイン。実はポンピドゥ大統領は1974年4月2日、「モナ・リザ展」オープンのおよそ1週間前に病気で亡くなっているのだが、この図録のための原稿は当然書いていて、それが掲載されている。次のページには日本語訳が載っている。
「フランス人の心にかくも親しい一人の女性大使が、貴方がたに向かうのである。フランス人の一人一人は、それぞれの時代を通じて、彼女の微笑のうちに、自己の生命の神秘と、各自の動かしがたい運命を見たと信じてきた。」
そんな言葉を残し、ポンピドゥ大統領はこの女性大使の帰国を待たず、自身も旅立った。大統領のメッセージの日本語訳の対向ページは当時の日本国内閣総理大臣、田中角栄氏のメッセージである。
「私は日本国民とともに遠い海の彼方からやってきたこの『世界の恋人』をフランス国民の日本国民に対する最大の賜物として心から歓迎し、できるかぎり多くの人がこのまたとない機会を利用されることを期待しております。」
送り出す国の大統領は「大使」と言い、待ち焦がれ、歓迎する国の総理は「恋人」と言っていた。
そのほかの文章としては「《モナ・リザ》について」という解説を美術史家の穴沢一夫さんが書いている。モナ・リザ来日時は国立西洋美術館の事業課長だった人。会場は東京国立博物館だったが学術面を担当したのは西洋美術館なので。
さらにモナ・リザ以外の作品も詳しく説明した「レオナルドの人と芸術」を国立西洋美術館館長の山田智三郎さんが、さらにレオナルドをフランスに招いたフランソワ1世のコレクションについて、当時、国立西洋美術館研究員でのちに東京藝術大学美術学部教授になる佐々木英也さんが書いている。あと、レオナルドの略年譜を掲載。
70ページほどの簡素といえば簡素な図録だが、表紙の紙もなかなかいいし、見返しもしっかりした紙を使った作りで、デザイナーはグラフィックデザイン、ブックデザインの第一人者、原弘(ひろむ)であった。
ところで僕は、1974年に東京でモナ・リザと初対面をし、1979年にパリで再会したわけだが、「いつか一度でいいから、パリに行って」と思ってたパリには結局20回以上訪れて、時間に余裕があればルーヴルのモナ・リザの部屋に行き、また来ましたと、古い知り合いに挨拶に行くような感じになる。「あなたのことはあなたが16歳のときから知ってるわ」と言ってくれてるのかもしれない、しかし全然、歳を取らないお姐さまに会いに行っている。
2005年、モナ・リザの展示室が日本テレビ放送網株式会社のサポートでリニューアルし、そのプレス内覧会に招いてもらったのもいい思い出だ。50年前、初めてモナ・リザを見た高校生だった僕はその約30年後には美術記者としてルーヴル美術館のモナ・リザの新展示スペースで取材をしていたというわけだ。
僕に限って言えば、絵を見るという習慣、もしかしたら絵を見るという修行、そしてそのことを仕事にしてしまった自分の人生を続けている。そして、人生の拠り所として掲げる祭壇の奥にはいつもモナ・リザが微笑んでいるのである。
Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。雑誌、書籍、ウェブへの美術関連記事の執筆や編集、展覧会の企画や広報を手がける。また、美術を軸にした企業戦略のコンサルティングなども。前職はマガジンハウスにて、ポパイ、アンアン、リラックス編集部勤務ののち、ブルータス副編集長を10年間務めた。国内外、多くの美術館を取材。アーティストインタビュー多数。明治学院大学、愛知県立芸術大学非常勤講師。
■連載「アートというお買い物」とは
美術ジャーナリスト・鈴木芳雄が”買う”という視点でアートに切り込む連載。話題のオークション、お宝の美術品、気鋭のアーティストインタビューなど、アートの購入を考える人もそうでない人も知っておいて損なしのコンテンツをお届け。