ロングセラーの西洋絵画鑑賞入門書『名画を見る眼』シリーズがカラー版になった。最初の発売からすでに50数年が経ち、累計82万部も発行されたそうである。このシリーズには僕も思い入れが強く、また大いに感謝しているので、個人的な話もおり混ぜながら、『カラー版 名画を見る眼』を紹介していきたい。■連載「アートというお買い物」とは
西洋絵画鑑賞の定番が図版をカラー化、大幅追加。電子版もいいかも
僕が高階秀爾『名画を見る眼』に出合ったのは、大学2年生の時で1979年だった。その年の夏休みに1か月ほどのヨーロッパ旅行を予定していて、それもできたら多くの美術館に行きたいと思っていたので、西洋絵画の入門書を探していて見つけた。岩波新書なので、価格も数百円と安く、しかも旅に携行しても嵩張らないのが良かった。
本書を迷わず購入した理由は実は手軽だったというそのことが第一で、恥ずかしながら、著者の高階秀爾先生が美術史研究の泰斗であることを知ったのはあとからだった。それでも、岩波新書というブランドからくる安心感もあって、これは良かろうと判断したのだと思う。『名画を見る眼』『続 名画を見る眼』は今も書架にあって、ときどき読み返している。
最初に買ったものはたぶん旅先で誰かと本を交換してしまったりして(今のようにスマホ+ネットなどない時代は、長旅では日本語で読むものは読み尽くしてしまい、旅人同士で本を交換するのはよくあることだった)、最初に買ったその本自体は手元にないのだが、のちにやはりあの本は必要だからと再び買ったものが今もある。
ところで、そのときどんな本と交換したかというと、山崎正和さんの『海の桃山記』(文春文庫)だった。これは天正遣欧使節がたどった経路を著者が辿っていくルポルタージュエッセイだ。織田信長〜豊臣秀吉の時代、日本から初めてヨーロッパを旅して、帰国した(しかし、それぞれ痛ましい結末を迎えることになる)使節たちを描いたものだ。僕たちのこの本の交換は、お互いなかなか好ましいものだったと思う。僕はその後、天正遣欧使節に深く興味をもち、何冊か読んだ。その中には松田毅一先生の著作や若桑みどり先生の『クアトロ・ラガッツィ』ももちろんあるし、沢木耕太郎さんの『深夜特急』の隠し(?)テーマが天正遣欧使節であることもすぐにわかった。
話を戻そう。僕が西洋絵画を見始めたのは、高校生の頃だ。その頃、西洋絵画を見ようという場合、国立西洋美術館やブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館)はすでにあったけれど、当時はデパートでの美術催事が盛んで、そこで印象派やポスト印象派の画家たちの作品、あるいはユトリロやヴラマンク、ビュッフェなどを知った。しかもこれも日本独特なのだが、新聞社が展覧会を主催して、招待券を新聞販促用に配るので、それを使って見た。1974年のモナリザ来日のときは東京国立博物館に2時間くらい並んで見た。
モナリザを東京で見たとき、いつかは外国の美術館でゆっくりと絵を鑑賞したいと強く思った。実際にはその5年後にルーヴル美術館でモナリザに再会したのだが、16歳〜21歳の5年というのは長いものである。
モナリザ来日は特異な例として、『名画を見る眼』には、ファン・アイクの《アルノフィニ夫妻の肖像》やレオナルド・ダ・ヴィンチの《聖アンナと聖母子》などが取り上げられていて、当時はとてもとても、これらの絵ほとんどが今だって日本に来てくれるような絵ではない。やはり、歴史的な名作絵画を見るには旅をするしかないのだ。
ベラスケスの名作《宮廷の侍女たち(ラス・メニーナス)》についても書かれていて、この絵だけはなんとしても見たいと思い、その僕の初めてのヨーロッパ旅ではパリからマドリードまで寝台車に乗って移動し、プラド美術館にたどり着いた。今、『名画を見る眼』のそのページを見ると、モノクロの小さな図版で、新書なのでそれほど鮮明でもない。それでもこの絵がなんとしても見たいと思わせてくれたのは著者の文章の力量ゆえなのだろう。
『名画を見る眼』には最後にマネの《オランピア》が取り上げられ、「近代への序曲」というサブタイトルで結ばれている。そして『続 名画を見る眼』ではモネ、ルノワールら印象派、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、さらにルソー、ムンク、マティス、ピカソ、シャガール、そしてカンディンスキーやモンドリアンといった抽象絵画までをカバーしている。当時の自分としては、『続〜』の方に出てくる絵の方がわかりやすく親しみやすい気がして、熱心に読んでいたかもしれない。
このたび、『名画を見る眼』は『カラー版 名画を見る眼I——油彩画誕生からマネまで』と生まれ変わり、『続 名画を見る眼』は『カラー版 名画を見る眼II——印象派からピカソまで』となった。図版がカラーになり、文中に登場する参考作品の図版も追加されたりしている。最初の版が出てから長い年月が経っているので、研究が進展したり、変化があった事柄についてはそれぞれの章末に注の形で追記されている。
見比べれば感慨深いものがある。まず、元の版は簡素な新書で、書店で買ったときには素っ気ない表紙にグラシン紙がかかっていたのかもしれないが、新しいカラー版ではカバーと帯(腰巻)がかかって、内容について、画像と文章でこちらにアピールしている。印刷技術の発達の恩恵でもあるが、本の売り方、消費者へのアピールも大きく変わった。印刷でいえば、本文も元の版は活版印刷で、新しい版は電子組版によるオフセット印刷だ。これも当然の時代の流れだが、活版印刷にフェティシズムを感じる自分は古いなぁとしつつ、それもいいとも思う。
カラー化、参考図版追加以外にもいろいろと見やすくなっている。たとえば、ゴッホ(本書の表記ではファン・ゴッホ)の《アルルの寝室》は旧版ではシカゴ美術館(本書の表記ではシカゴ美術研究所)所蔵のものの図版を使っているが、今回のカラー版ではアムステルダムのゴッホ美術館のものをメインの図版として扱っている。この作品は類似作品があと一つ、パリのオルセー美術館にもある(旧松方コレクション)が3点とも掲載されている。メイン図版は旧版では横位置の絵を強引に1ページに縦にして掲載してるのに対して、カラー版では見開きで見せている
初めてこの2冊の本を手に取ったとき、掲載されている絵はひとつも見たことがなかった。まだ見ぬ絵のことを、あるいはまだ見ぬ絵だから、熱心に読んだのだろう。今ではここに載っている絵はほとんど見た。パリで、ロンドンで、マドリードで、ウィーンで、ニューヨークで。なかには日本に来たときに見たものもある。40年以上、絵画鑑賞という一つの趣味を続けた結果であり、その趣味を旅に組み込んだ結果である。そして、美術を仕事にもしてしまった。
この本を初めて手に取った40年以上前、ここに載っている絵はもちろん、さらに多くの絵をこれから、たくさん見ていくぞと考えた。そんな何も知らなかった学生時代の自分の若さはとり戻せないけれど、自己満足とはわかりつつ、あの頃よりは知識も増えたし、同じ趣味の人と語り合えるし、より楽しみが深まった今の自分もまた良いのではないかと思う。
絵を見るという趣味を十代から持てたこと、それを続けられて良かった。同時にこの本に出合えてありがたかったと、今回このカラー版になった2冊のページを繰りながら考えている。同時にKindle版も発売になったので、これも買おうか迷う。この本はやはり、旅に携えて行きたいからだ。電子書なら、荷物になるとか、持ってくるのを忘れたという問題は全部解決されることになる。
Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。雑誌、書籍、ウェブへの美術関連記事の執筆や編集、展覧会の企画や広報を手がける。また、美術を軸にした企業戦略のコンサルティングなども。前職はマガジンハウスにて、ポパイ、アンアン、リラックス編集部勤務ののち、ブルータス副編集長を10年間務めた。国内外、多くの美術館を取材。アーティストインタビュー多数。明治学院大学、愛知県立芸術大学非常勤講師。東京都庭園美術館外部評価委員。
■連載「アートというお買い物」とは
美術ジャーナリスト・鈴木芳雄が”買う”という視点でアートに切り込む連載。話題のオークション、お宝の美術品、気鋭のアーティストインタビューなど、アートの購入を考える人もそうでない人も知っておいて損なしのコンテンツをお届け。