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2026.05.11

中山雅史「サブ組が盛り上がっているチームは強い」③

フランスでの「歴史的一歩」は、中山雅史の足からもたらされた。時代は移り変わっていき、選手の顔ぶれも変わっていくが、その中でも代表への熱意は消えなかった。しかし、2002年の日韓ワールドカップを目指す道は、若き才能の台頭と、度重なる怪我との戦いでもあった。そしてフィリップ・トルシエ監督という異色の指揮官のもと、中山は精神的支柱となり、自国開催の熱狂を支えたのだった。3回目。【特集 2026FIFAワールドカップ】

中山雅史「サブ組が盛り上がっているチームは強い」③

初ゴールの必然性。骨折の美談の真実

1998年6月26日、日本のワールドカップ敗退はすでに決まってしまっていた。それでも歴史的な初勝利を挙げようとジャマイカとの最終戦に挑んだものの、メンバーの半数がイングランドでプレーしていたジャマイカとは経験値の差があった。39分、54分とゴールを許し、絶望的な展開となる。そんな中、74分、左サイドの相馬直樹からのクロスを呂比須ワグナーがヘディングでゴール前に落とす——。

「呂比須からのボールに対して『どこで流し込むべきか』を瞬時に判断できました。それは前年のアジア最終予選ホーム・カザフスタン戦での中田英寿からのパスを決めることができなかったという反省があったから。ボールはヘディングには低く、足では高い位置だったため、あの泥臭い腿という選択肢が生まれたのです」

ゴール前に生じた刹那の空白。そこに反応したのは中山雅史ただ一人であった。浮き球に対し、身体を投げ出すようにして右大腿部で合わせる。これが日本のワールドカップにおける歴史的一歩となった。

「見た目には『誰にでも決められる』ように見えると思います。しかし、シュートに対して常に詰める動きをやり続けてきたからこそ、あの場所にいられたんじゃないかと思っています。それを偶然ではなく必然にするためにやり続けられるかどうか。僕は、技術の高い選手たちの中で生き残るために、人がやらないこと、足を出さないところに常に体を投げ出す必要があったのです」

試合後、中山は骨折していたことが報じられた。「骨を犠牲にしながら日本のために1点を取った」という美談の裏側を中山は笑いながら教えてくれた。

中山雅史

「伝説としては折れた足で決めた方が格好いいので、あえて否定はしてきませんでしたが、事実は骨が折れたのはゴールを決めた後です。ただ日本として無得点で終わるよりは次へ繋がる爪痕を残せたという意味で重要な得点にはなったんじゃないですかね」

トルシエ就任後も招集。だが台頭する若い世代

43歳のフィリップ・トルシエ監督が就任すると、チームは若返りを図り、黄金世代と呼ばれる若手たちが台頭する。「ドーハの悲劇」を経験し、1998年フランスワールドカップに出場したのは中山と井原正巳の2人だけになっていたが、その井原も1999年を最後に代表の舞台から遠ざかってしまった。

しかし中山は諦めなかった。「いつも代表発表のときはドキドキしていました」と振り返る。

「トルシエ監督は事前に打診なんかほぼしないんです。だから発表のたびに『どうだろう?』とすごく思っていました。代表に招集されても、練習だけのときもありましたけど、その中で自分がやれることをやろうと思っていましたね。プレーは当然そうですし、あとは『チームをまとめる』というのはちょっと大げさかもしれないですけど、チームを盛り上げることも、自分に求められている役割だろうと思ってました」

そんな心構えは「ドーハの悲劇」の際に学んだという。

「ドーハのときはずっとサブ組でプレーしていたんです。次戦を想定した紅白戦では、例えばサブ組の右サイドバックとして、普段やらないポジションでもサブ組の誰かが相手選手のプレーを真似して、スタメン組に意識させることもありました。常に日本代表が勝つためには何が必要かと控えメンバーも考えながらやっていましたね。その控え選手が盛り上がることはチーム全体を盛り上げることにつながるんだと感じていたんです」

中山雅史

中山は招集され続けたものの、決して出番は多くなかった。しかも大切な2002年日韓ワールドカップの年、中山は開幕からなかなか点が取れなかった。日本代表のヨーロッパ遠征からも外されてしまう。落選は不可避であるとの悲観的な観測が支配的だった。

狂熱を支えたサブ組の熱。過渡期を駆け抜けた魂

本大会を前にベテランを外して臨んだヨーロッパ遠征のパフォーマンスに、トルシエ監督は不安を感じていた。中山は「もう必要とされていないかも」と思いつつも「ヨーロッパ遠征の出来があまりよくなかったから、チャンスが少しあるかもしれない」とも感じていた。

そして運命のメンバー発表。中山の名前がそこにあった。背番号は「10」。大会での出番は第2戦のロシア戦で72分からピッチに立っただけに留まった。それでも、中山は他の選手を鼓舞し続け、チームを盛り上げ続けた。

「最年長でもあったんで、そこで自分が1番元気に、1番ハードに、1番ひたむきにやることが必要で、その姿勢を見ればほかの選手は文句を言わずにやらざるを得ないだろうと思っていました。そして自分の中で持論があって、サブ組が盛り上がっているチームは強い、という思いがあるんです」

この中山の姿勢にチームはまとまった。そして出番がなかった悔しさを胸に秘め、ベスト16での敗退後、中山は清々しい表情で若手たちに声をかけていた。

中山は「ドーハの悲劇」「初出場」「自国開催」という、日本サッカー界の激動期を象徴する3つの舞台を完走した。同世代の旗手たちが一人、また一人と去るなか、最後まで最前線に立ち続けたのは、不器用とも言えるこの男であった。

中山雅史/Masashi Nakayama
1967年9月23日静岡県生まれ。藤枝東高校から筑波大学を経て、1990年にヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)に加入。1992年に日本代表デビュー。1993年の「ドーハの悲劇」を経験し、1998年フランスW杯、2002年日韓W杯に出場。フランス大会では日本代表のW杯初得点を記録した。国際Aマッチ通算53試合21得点。Jリーグでは1998年、2000年に得点王。その魂のこもったプレースタイルと明るいキャラクターで、日本サッカー界を象徴する存在として知られる。

「プロになるずっと前から武田(修宏)には刺激されていたし、井原は大学2年生の終わりには代表に入って僕の知らない世界を見ていましたからね。その舞台に立ちたいという思いがありました。

だから、そこに立つためには何をしなければいけないか、自分の置かれた立場で、置かれたポジションで何をしていかなければいけないかと考えながらやっていました。DFをやったりもしましたけど、オフト監督にFWで呼ばれてから、『じゃあここでまたのし上がってやろう、生き残っていこう』という気持ちになって、それをずっと続けただけです。

今だって長友佑都は4大会連続でワールドカップに選ばれていますよね。それは、すごいことじゃないですか」

そう中山は謙虚に言う。そしてしみじみと日本代表時代を振り返り、静かにこう語った。

「過渡期を過ごさせてもらった、日本代表のそういう大事な時期にメンバーだったのはありがたいことだと思いますね」

※4回目に続く

TEXT=森 雅史

PHOTOGRAPH=杉田裕一

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