1993年、ドーハの悲劇は中山雅史にとって、単なる敗北ではなく、代表キャリアの終わりを予感させる断絶であった。1995年を最後に一度は代表から外れ、普段着でピッチサイドに立つ屈辱も味わった。しかし、野獣の闘志は潰えていない。1997年、崖っぷちの日本代表に呼び戻された男は、魂を削るようなプレーでフランスへの扉をこじ開ける。だが夢の舞台では生涯忘れられない場面が待っていた。2回目。【特集 2026FIFAワールドカップ】

リポーター席からの韓国戦。待望論を背に日本代表復帰
1994年、中山雅史は心身ともに摩耗していた。「ドーハの悲劇」によるワールドカップ出場権喪失。その悔恨が、かつてのライバル・韓国が本大会で躍動する姿を前に、鮮明に蘇る。当時の中山は、鼠径ヘルニアや恥骨炎のリハビリのためプールでの歩行訓練を繰り返す日々。サッカーから遠く隔てられた現実に、底知れぬ無力感を抱いていた。「サッカーから程遠い場所にいる状況が、途方に暮れるほど悔しかった」と振り返る。
その後、ドイツに渡って手術を受けて回復したものの、1995年以降日本代表に招集されることはなかった。そして迎えた1997年、フランスワールドカップ・アジア最終予選。ホームに韓国を迎えた一戦に、中山はテレビ局の仕事という、ストライカーという本分とは対極にある役割で国立競技場のピッチ脇のトラックに立っていた。目の前で逆転負けを喫する代表の姿を見ながら、複雑な感情に包まれていた。
「チケットもなかったため、ゲスト解説なら一番良い席で見られるという思いもありました。しかし現場に行くと、いきなりピッチに降りてレポートをしてくださいと言われ、何をやらされるのか分からないまま盛り上げ役に徹しました。試合は山口素弘の見事なループシュートがありましたが、最後はシンプルなやられ方で逆転を許してしまいました」

1967年9月23日静岡県生まれ。藤枝東高校から筑波大学を経て、1990年にヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)に加入。1992年に日本代表デビュー。1993年の「ドーハの悲劇」を経験し、1998年フランスW杯、2002年日韓W杯に出場。フランス大会では日本代表のW杯初得点を記録した。国際Aマッチ通算53試合21得点。Jリーグでは1998年、2000年に得点王。その魂のこもったプレースタイルと明るいキャラクターで、日本サッカー界を象徴する存在として知られる。
日本はその後も苦戦を強いられた。続くアウェイのカザフスタン戦に引き分けると57歳の加茂周監督を更迭。41歳の岡田武史コーチが昇格して指揮を執ったが、なかなか勝点を積み上げられない。それでもなんとか立て直し、アジア3位をかけたプレーオフまであと1勝というところまできた。
「まだ自分にチャンスはあると信じていました。日本が中央アジア遠征で苦戦しながらも勝ち点を積み上げ、アジア第3代表決定戦への可能性を残してくれたからです。とにかく出場権さえ獲得してくれれば、本大会で自分が選ばれるチャンスはある。その一心で応援していました」
2年5ヵ月ぶりの帰還。熱狂の裏側に潜む恐怖
首の皮一枚繋がって迎えたホーム・カザフスタン戦でエースの三浦知良が出場停止に。そこでJリーグで活躍している中山への待望論が高らかに沸き起こった。岡田監督は、2年5ヵ月の空白を経て中山を代表へ呼び戻した。さぞ喜びいっぱいでピッチに向かったと思われたが——。
「新聞の一面などで取り上げられ、自分でも『俺が入ればどうにかなる』という思いでアピールしていました。しかし、いざカザフスタン戦を前に招集されると実力以上のものを期待されているギャップが怖くなり、大きなプレッシャーを感じたのです」
先発した中山は、開始早々からピッチを縦横無尽に駆ける。しかし、過度な昂ぶりからか、前半40分までに訪れた5度の決定機を逸した。暗雲が立ち込めるなか、44分。自ら得たフリーキックを名波浩が前線へ送り込む。中山は相手ディフェンダー諸共ボールをゴールへ押し込み、待望の復帰弾を記録。勢いそのままに日本の勝利を決定づける3点目を挙げた。

「何もできなければサッカー人生が終わるという緊張感の中で試合に入り、何度もチャンスを外して『やばい』と思いましたが、最終的に得点を挙げられたことで救われました。チームは直前の韓国戦に勝利して明るい雰囲気になっており、一発勝負に勝てばいいという状況まで持ってこられていたため、上り調子のところで復帰できたのは幸運でした」
勝って迎えたアジア第3代表決定戦。相手は前回最終予選で苦杯を喫したイランだった。先発した中山は39分、中田英寿のスルーパスに反応して先制点を挙げる。ところが後半に入って逆転されてしまった。それでも何とか追いつき、延長で岡野雅行が決勝ゴールを決めて、日本はついに悲願のワールドカップ出場権を掌中に収めた。
夢に見た舞台で待っていた。人生を変えたあのワンプレー
夢の舞台は厳しい戦いになった。1998年6月20日、初戦のアルゼンチン戦を0-1と落とした日本は、第2戦のクロアチア戦で敗れると敗退が決まってしまう可能性があった。0-0で迎えた34分、相手のパスをカットした中田英寿からのパスがマークを外した中山に通る。中山は右大腿部でコントロールするとシュート。
「精一杯の動きの中でした。コントロール自体は完璧。左足だとボールの転がる場所が悪くなる、だから右足の腿の外側でトラップしようと思い、そのイメージ通りにボールを置けたんです。ところがGKに弾かれてしまいました。後で見ればGKの頭上や手の先にもスペースがあった。もしシュートをもっと強く打てていたら手にはじかれたボールでもゴールに向かったんじゃないか、あるいはダフっていればタイミングがずれて入っていたんじゃないかという思いもあります」
中山は「決まっていれば生涯最高のゴールと言えるものだった」と振り返る。そして「クロアチア戦であのような完璧なプレーでゴールを決めていたら、満足してサッカー人生を終えていたかもしれません」と笑いながら言った。
結局日本はこの試合も0-1と敗れ、リーグ最終戦を待たずに敗退が決まった。だが中山の闘志は、この絶望的な状況下にあっても決して潰えていなかった。

