1993年10月28日、カタールの空に響いたホイッスルは、日本サッカー界にとって「悲劇」の象徴となった。そのピッチで、誰よりも泥臭くゴールを追い求め、力尽き果てた男がいた。後に「ゴン」の愛称で国民的英雄となる男は、いかにしてディフェンダーからストライカーへと変貌を遂げ、未曾有の決戦へと辿り着いたのか。初選出からドーハの地で見た景色まで、中山雅史の魂の軌跡を辿る。1回目。【特集 2026FIFAワールドカップ】

DFとして歩んだ序章。運命を変えた「進言」
中山雅史のキャリアは、端からストライカーとして約束されていたわけではない。己の存在を認めさせるまで、長い試練の季節があった。藤枝東高校時代にストライカーとして名を馳せたものの、静岡県選抜で国体優勝を飾った際のポジションはストッパー。ユース日本代表選出の契機も守備の評価によるものであり、FWとして脚光を浴びる日はまだ先にあった。
筑波大学へ進学後、1年生の時は守備職人としての研鑽に明け暮れていた。実際、夢であった日本代表に入るためにはそちらのほうが賢明であるとも考えていた。しかし、2年生への進級を前に、思いもよらぬ転機が訪れる。
「2年になった時、最上級生にキャプテンの平岡和徳さんと副キャプテンの長谷川健太さんとがいました。センターフォワードには1年間のブラジル留学から帰ってきた田口禎則さんが入る予定だったんです。
しかし、田口さんが『DFをやりたい』と希望し、他にめぼしい選手がいなくなりました。適任者を探すうち、高校時代にFWをやっていた経験から『ゴンにやらせよう』と平岡さんや健太さんが監督に進言してくれたらしいです。それがFWに戻ったきっかけです」

消去法とも言えるポジション変更だったが、これが日本サッカー史を塗り替えるストライカーの産声となった。しかし、その後の歩みも決して順風満帆ではない。
学生選抜やB代表に呼ばれても任されるのはサイドバックやサイドハーフ、ディフェンシブハーフ、FWという、複数の役割をこなせるユーティリティプレイヤーゆえのジレンマに直面していた。FWとしての地位を確立するのは、ハンス・オフト監督が日本代表の指揮を執るようになってからのことである。
オリジナル10落選の衝撃。代表へ懸けた「2年契約」
1993年のJリーグ開幕を前に、中山は大きな決断を迫られていた。所属するヤマハ発動機が、Jリーグ創設時の「オリジナル10」(発足メンバーとなる10チーム)から漏れたのである。清水エスパルスからの誘いもあったが、当時、中山は靭帯の怪我に苦しんでいた。
「私の目標はワールドカップ出場でした。日本代表に入るためにどこでプレーするのが最善かを考えた結果、1992年はヤマハに残ってJSL(日本サッカーリーグ)を戦う道を選びました。ただヤマハからは『1年契約は結べない、2年契約が条件だ』と言われました。
それは1992年に1年間JSLを戦った後も、1993年のもう1年間はJリーグの下のカテゴリーであるJFLで戦わなければならないことを意味します。それでもワールドカップを目指すために当時の日本のトップリーグでの出場機会を得られるのなら構わないと、その条件を飲みました」

当時はワールドカップ出場など夢のまた夢という時代だったが、中山は「年齢的にこれが最後のチャンス」と覚悟を決めていた。自分のプレースタイルは若いからできる。もし1994年アメリカワールドカップを逃せば、もう次の若手選手が台頭する。そうなると自分は入れない。たとえ戦う場が下のカテゴリーであっても、JSL最終年で結果を残せば代表への道は開けると確信していたのだ。
「選択した道を間違いにしないよう懸命でした。代表から外されれば選択ミスになりますが、ヤマハの中で自分とチームのレベルを上げなければ先はないという覚悟でした。1993年のJリーグ開幕時、私はJFLでプレーせざるを得ませんでしたが、代表で戦うためのコンディションを維持し、結果を残し続けることで、自分の力にしていこうと考えていました」
その決意通り、JSL最終年に得点ランキング2位、ベストイレブンに選出される活躍を見せ、1992年に初めてFWで日本代表へと招集される。しかし、当初は高木琢也の控えという立場だった。中山はサブとしていかに一番手で使ってもらえるか、監督に「使いたい」と思わせる存在であり続けるための勝負を、日々の練習から繰り返していた。
イラン戦で1点を奪った執念。イラク戦で見た「必然の敗北」
1993年、ドーハでのワールドカップアジア最終予選。序盤、中山に出番はなかった。しかし、第2戦のイラン戦、1点リードされた窮地で投入されると、その執念が結実する。88分、味方のミスパスを猛然と追いかけ、ゴールライン際でスライディング。そのまま反転して蹴り込んだ一撃が、沈滞したチームのムードを一変させた。
「あのゴールシーンについては、自分の中ではゴールラインを割らないという自信がありました。そして、GKがクロスを警戒して前に出たため、ニアサイドに打ち込むことができたのです。あれも厳密にはシュートではないんですよ。狙う余裕はなく、中に誰かいてくれという思いでゴール方向に蹴り込んだものが、スライディングの勢いで巻き込んで入ったものでした」
そして運命のイラク戦。69分、ラモス瑠偉のパスに抜け出した中山は勝ち越しゴールを奪う。アメリカへの切符は、その手の中にあった。しかし、肉体はすでに限界を超えていた。

1967年9月23日静岡県生まれ。藤枝東高校から筑波大学を経て、1990年にヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)に加入。1992年に日本代表デビュー。1993年の「ドーハの悲劇」を経験し、1998年フランスW杯、2002年日韓W杯に出場。フランス大会では日本代表のW杯初得点を記録した。国際Aマッチ通算53試合21得点。Jリーグでは1998年、2000年に得点王。その魂のこもったプレースタイルと明るいキャラクターで、日本サッカー界を象徴する存在として知られる。
「イラク戦でのゴールも、なんとなく『前に出すぎてしまって、オフサイドかな』という感覚はありました。それでも出されたボールに対して最後までやり切るつもりで打ったから入ったのだと思います。結局、その試合の途中で交代しましたが、あの時の自分はヘロヘロでした。
イラクは間違いなくあの予選で一番強かったです。中2日で5試合という過酷な日程を、ほとんどメンバーを変えずに戦い抜くための準備、すなわち選手層の厚さが当時の代表には不足していました。負けには必然がありました」
残り17秒。ショートコーナーからの失点。ピッチの外でその瞬間を見た中山は、顔を背けるように膝から崩れ落ちた。韓国戦の勝利でどこか浮かれた部分がなかったか、チャンスを決めきれなかった自分に要因があるのではないか――。あまりに深い絶望を抱えたまま、中山の「第一章」は幕を閉じた。

