2014年に開催されたソチ五輪。その日本代表だったフィギュアスケート男子シングルスケーターの町田樹は今、学術の世界で活躍している。博士号を取得し、大学の准教授になってもなお新しいことに挑戦し続ける町田の現在、過去、未来を5回に渡ってお届けする。連載2回目は町田の現役時代とセカンドキャリアに至るまでの道について。【特集 RE:チャレンジャー】

五輪を逃したら、死んだ時に骨と一緒に“後悔”という塊が残る
現役時代に感じたさまざまな問題を、研究者の立場から考えていきたい。そう語った町田樹。町田の現役時代はまさに、フィギュアスケート男子シングルの最初の黄金期。高橋大輔、織田信成、小塚崇彦、無良崇人、町田樹、そして若き羽生結弦が代表の座をかけてしのぎを削っていた。その中でもオリンピック代表をかけた戦いは壮絶なものだった。
「スケーターとしてのキャリアのなかで最大のチャレンジは、やはりソチ五輪だったと思います。当時は高橋、織田、小塚、羽生、無良、そこに私も入れていただいての6強。私はメディアでは“ソチ第6の男”と言われ、一番オッズが低かったわけです。ソチ五輪代表を誰が勝ち取るかというレースは、本当に人生伸るか反るかの大勝負でした」
代表を獲得するため、町田は自分を冷静に分析することから始めた。
「自分に何が足りないのかと考えたとき、4回転ジャンプや持っている技のクオリティが他の選手に比べて足りないと思いました。やはり能力主義の世界なので、自分に足りないものは毎日地道にコツコツと努力をして習得できるように頑張っていましたね。最終的には駅の階段が登れませんでした(笑)。追い込みすぎて、途中でゼーハーしちゃって。それくらい日々ストイックに取り組んでいましたね」
この計画を始めたのは、バンクーバー五輪代表選考が終わってすぐのことだったという。
「(バンクーバー五輪の代表選考大会である)全日本選手権は4位。代表の第一補欠でした。それまで五輪は視野に入っていなかったけれど、『もう一個上がれば五輪じゃん』って気づいたんです。そこから4年後のソチ五輪を狙おうと虎視眈々と計画して準備を始めた。特にプレ五輪シーズンと五輪シーズンは追い込みまくりました。
予選大会である全日本選手権のみならず、グランプリシリーズなどのすべての重要大会は落とせない。圧倒的に実績が足りなかったので、そこでライバルに勝たなければ代表に選んでもらえないだろうと。一つでも多く勝っておくということを目標としていました」
だが、本番一発勝負というスポーツの世界は勝とうと思って勝てる世界ではない。町田自身、ジュニア時代に絶対優勝したいと意気込んだ試合で勝つことができなかったりと悔しい思いをしてきた。そんな町田が試合で力を出し切れるようになったのは、自分の中に意志の強さが芽生えたからだと話す。
「3歳からスケートを始めたのですが、当然その時は自分の意志ではなく親にやらされていただけでした(笑)。そこから氷の上で20年間努力してきたわけですが、その集大成として五輪を考えていました。当時の言葉をそのまま使うと、『ここで自分に弱さや甘えが出て五輪を逃してしまったら、私が死んで遺体を焼いた時に骨と一緒に“後悔”という塊が転がっているだろう』と。それくらい強い後悔が残ると思っていました。一度きりの人生でこんなターニングポイントはそうそうない。ここでちょっとでも引いたら本当に後悔が残る。そんな思いの強さで押し切ったような感じがします」

意識改革が起きた大学での経験
五輪代表を目指そうと決めるまでは、「消極的受け身でスケートをやっていたり、実はちょっと辞めたいと思っている時期も何回もありました」と明かした町田だが、その意識は大学入学で大きく変化した。
「大学に入って180度、ものの考え方、価値観が変わりました。それはなぜかと言うと、大学というのは自由なんです。学部ごとにカリキュラムや方針はありますが、いろんな学問があふれている。時間割も、何を学ぶかも自分次第。何を学びたいのか自問自答しながら考え、実際に選びとった授業に行って学ぶことはこんなに刺激的なのかと思いました。毎日電流が走っているような感覚です。
すると、スケートも能動的になったんです。何のためにスケートをやっているのか、キャリアの目標は何なのか。ソチ五輪が目標となったら、今は何をやらなければいけないのか。目標から逆算して計画を立てながら、一日一日、自分のやるべきことを自分で定めてやっていく。そういう能動的な視点に変わりましたね。
大学は英語でユニバーシティというようにユニバース(宇宙)だ、と思ったんです。その宇宙をどう旅するかは自分次第。逆に自分というものがなければ無重力空間で外圧によってふわふわ浮遊して宇宙の塵になるだけ。自分で噴射して進むべき道を選び、自分の足で自覚的に歩んでいく。それが大学でできるようになりました」
大学での意識改革が、その後のスケートキャリアと引退後のセカンドキャリアの大きなターニングポイントとなった。このふたつがクロスした期間を町田は“汽水域”と表現する。
「フィギュアスケーターから研究者には仮面ライダーの変身のようにすぐにジョブチェンジできるわけがない。川の水と海の水が混ざる場所があって海に流れていくように、キャリアの汽水域が大学だったわけです。大学の先生のご指導や勧めもあって研究の世界もいいなと思い始め、スケートのキャリアが終わったら研究者になろうと決断しました。そしてソチ五輪というスケーターのキャリアの最大のチャレンジをしながら、その裏で院試の勉強などセカンドキャリアへの準備を進めていったのです」
「よくできた展開でしょう?」と町田は笑うが、五輪と卒論、院試の両立は並大抵の努力では叶わない。しかし町田は代表の座を勝ち取り、五輪の舞台では5位入賞、その後の世界選手権でも銀メダルを獲得。早稲田大学の大学院にも合格し、現役を引退。研究者の道へと足を踏み入れた。

町田樹/Tatsuki Machida
1990年神奈川県生まれ。2014年ソチ五輪で5位入賞。24歳で競技者を引退後は研究者への道を進み、現在は國學院大學人間開発学部准教授を務める。2025年4月26・27日に東京・東京文化会館 小ホールにて「上野の森バレエホリデイ2025特別企画 Pas de Trois Encore 2025 上野水香×町田樹×高岸直樹《バレエとフィギュアに捧げる舞踊組曲2》」が上演される。