パリ五輪の出場権をかけたAFC U23アジアカップが4月16日にスタート。上位3カ国にパリ五輪の出場権が与えられる(4位はアフリカ予選4位チームとのプレーオフ)。五輪でのサッカー競技は、23歳以下(3人のオーバーエイジ)の選手で構成され、本格的に同大会を目指す代表の監督として、2021年12月に就任したのが大岩剛だ。彼の組織マネージメントについて、話を伺うインタビューの1回目は、大岩の現役時代にフォーカスを当てた。プロ1年目に出会った世界的名将の姿が、指導者となった今、深く理解できると話す。
上には上がいる。子どものころから、それが当たり前だった
――大岩剛さんの出身地である静岡県静岡市清水区は、本当に多くのJリーガーや日本代表が育った町ですね。
「僕らが子どものころは、清水市だったんですが、僕が卒業した清水商業(現清水桜が丘高等学校)だけでなく、清水東や東海大一(現東海大付属静岡翔洋高等学校)と、名門高校が3つもありましたからね」
――その理由として、清水FCの存在がありますね。
「清水FCは清水市内の選抜チームです。僕もそうでしたが、所属するチームや部活動ではお山の大将ではないけれど、周囲よりは上手いと思っているところがありました。でも、清水FCへ行くと、もっと上手い選手がいるから、そのお山の大将的感覚がなくなるんです。だから、もっとやらなくてはいけないと自然に思い、練習する。考えるとずっとそういう感覚でしたね」
――清水商業では、名波浩さんと同期ですね。
「はい。彼は藤枝市出身でしたが、子どものころから有名な選手でした。中学を卒業するとすぐに清水商業の練習に参加して、入学前なのにふたりとも試合に起用されて、『俺ら出ていいの?』なんて話したことを思い出します。3年には三浦文丈さん、2年には藤田俊哉さんがいました。僕はもともと点取り屋だったけれど、どんどんポジションが下がっていきました(笑)」
――それをどう受け止めていたんですか?
「実際問題、2年、3年にも素晴らしい選手がいて、FWでも中盤でも試合に出られるわけではない。しかもまだ中学を出たばかりで、身体も小さいし、技術も思考も拙いわけだからしょうがないですよ。でも、後ろのポジションで起用されることで、自分を活かしてもらえていると感じたし、居場所を手に出来たわけです。そうやって徐々に坂道を上がっていくという感覚ですね。
大学でも文丈さんや俊哉がいて、彼らとは小学生の頃からの付き合いですからね。そうやって、自分よりすごいヤツがいることで、僕の能力も引き上げてもらえたと思っています。プロになっても変わらなかったな。それは年齢やポジションに関係なくて、アントラーズのチームメイトであった(小笠原)満男(現・鹿島アントラーズアカデミー・テクニカルアドバイザー)からも学ぶことも少なくなかったですから。本当に出会いに恵まれている人生だと思います」
プロ1年目に出会ったベンゲルが僕の基準となった
――大学卒業後は、名古屋グランパスでプロサッカー選手に。同時期、グランパスはフランス人のアーセン・ベンゲルが監督に就任しました。ベンゲルは1年半後にはプレミアリーグ・アーセナルの指揮官となり、3度のリーグ優勝を果たす名将に。
「ベンゲルがいたから、名古屋入りを決めたわけではないんですが、今思うと、これもすごい縁だなと思っています。センターバックにコンバートしてくれたのもベンゲルでしたし。僕の指導者としてのスタイルというか、組織づくりにおいて、ベンゲルの存在は大きいですから」
――当時、名古屋の練習を取材したとき、チーム練習後の居残り練習を禁止していたのがとても印象的でした。
「サッカーに限らず、日本では自主練習というのを非常にありがたく考えられていますよね。確かにそれは大切なことだと思います。でも、ヨーロッパではあまり見られない傾向だそうです。コーチや監督が選手のコンディションをマネージメントできなくなるから、自主練習が禁止されているんですよ」
――試合やチームトレーニングで選手個々のコンディションを把握しているのに、目の届かないところでの練習で、負荷をかけているとなると、怪我に繋がる危険性もありますからね。
「ヨーロッパでは当たり前のことが、当時の日本では衝撃的だったし、珍しがられていましたよね。ベンゲルはコーチだけでなく、コンディショニングコーチも連れて来ていて、練習前後のしっかりとしたストレッチや、体幹にフォーカスしたトレーニングもやっていました。
今なら、誰もがやっていることですが、30年前ではそれもまた珍しいことだったと思います。選手に対してだけでなく、スタッフに対する振る舞いなど、ヨーロッパのマネージメントに触れられたというのは、今、監督をやるうえで、非常に重要でしたね」
――厳しい規律が求められていたというか、そういう管理下におかれた経験が、プロ1年目の大岩さんにとって、スタンダードになったのではないでしょうか。
「プロとして初めて触れたのが、ベンゲルだったので、それが基準にはなりましたね。当時はまだ、ベンゲルの方法論が正しいとか正しくないかというのはわからなかったけれど。その後の僕のキャリアには確実に影響していると思います。その後、現役を引退し、指導者になってから、ベンゲルをより深く理解できた部分は多いんですよ」
――というと。
「選手時代というのは、練習や試合での彼の立ち居振る舞い、ベンゲルの表しか見えていなかった。僕ら選手には見せない、裏の部分はわからなかったんです。彼がアーセナルで指揮を執っていたときから、何度か会いに行っているんですが、思い出話をするなかで、『こういうことがあっただろう』『ありましたね』『あのときは、こういうことを考えていたんだよ』という話になるんです。
名古屋でもコーチだったボロ・プリモラツもいっしょに話すんですが、『なるほどな』と初めて納得できることがたくさんありました。監督になると、自然と試合から逆算し、トレーニングから逆算していくという考え方になるんですが、ベンゲルの話のなかで、こういうサイクルでシーズンをまわし、日常をまわしていくというヒントを得られました」
――直接的なアドバイスや相談ではなくても?
「そう。『こういうときは、こうすればいいよ』なんて、アドバイスは一切ないですよ。『監督とは』みたいなものもありません。でも、昔の話を聞いて、僕の中で答え合わせができるという感じですね」
チームスポーツだからこそ、組織全員でのイメージ共有が重要
――ベンゲルの戦術に関してのコーチングはいかがでしたか?
「本当にシンプルですよ。要求もシンプルだし、コーチングもシンプルでした。同時に、選手全員に同じことを求めるという姿勢は今でも強く残っています。もちろん、ポジションそれぞれで役割は違うし、選手の能力も異なるわけですが、外国人選手だろうと、日本人選手だろうと、同じスタンス、公平だったと感じます。ピッチに立つ選手に対しては、ピクシー(ドラガン・ストイコビッチ)だろうとルーキーだろうと同じスタンスでしたね」
――それは選手にとっては、信頼に繋がりますね。でも、その裏では緻密で複雑な作業を行っていたと。
「そうですね。試合に向けて、相手を分析し、自チームの特徴を踏まえたうえで、試合の準備を行います。そのうえで、大切なのは、試合に出られる選手ができること、理解できることを把握することです。突拍子もないことをやれと言っても、できないですから。そのうえで、何をすべきかを明確にしてくれるのがベンゲルでした。
その提示は、選手個々というのではなく、組織としての方向づけでした。一人ができたとしても、チームとしては成立しないから。ピクシーも大岩も、誰もがそうしなくちゃいけないと、誰もがわかるように示してくれるんです」
――サッカーはチームスポーツだということですね。
「ボールを持っている人とボールを欲しい人というのは、描く絵も違うし、目線も異なるし、敵の状況も違う。そんな二人が同じイメージでプレーするためには、選手一人に伝えても、成立しない。受け手と出し手だけでなく、その周りの人間も理解しないと成り立たないということです。簡単にいうと」
――だからこそ、選手全員に対して公平と感じたんですね。
「かもしれませんね。でも、今話したようなことを当時理解していたかというと、まだ僕のなかでは明確ではなかったかもしれません。ただ、自分の立場が変わり、ベンゲルと話をしていると、監督の立場はそういうことなんだなと納得できます。同じ指導者でもコーチと監督は違います。コーチはある意味、局面に注視する立場だと思います。でも、監督は絵を描き、チーム全体に共有させないといけない。だからこそ、ベンゲルはどうだったのかと考えさせられるんです」
――大岩さんが監督になり、ベンゲルは喜んでくれていますか?
「監督になって、初めて東京で会ったんですが、『お前はそういうタイプの選手だったから、センターバックに起用したんだ』と言ってくれましたね」
※2回目に続く