2024年1月11日、岩政大樹の監督就任がベトナム1部リーグハノイFCから発表された。2023年シーズン、鹿島アントラーズを率い、5位という結果に終わり、チームを去ることが決まっていた。コーチから昇格した新人監督は、2年目のシーズン、日本人監督としては、優勝したヴィッセル神戸の吉田孝行監督に次ぐ成績を収めての退任だった。2024年2月18日に再開したベトナムリーグで、チーム作りに注力する岩政監督への独占インタビュー3回連載。1回目は、就任2週間の手応えとベトナムへ渡った経緯を聞いた。
指導者としての力が問われるベトナムリーグ
ーーハノイFC監督就任から2週間が経ちましたが、現状の手応えはいかがでしょうか?
「現段階では、思っていた以上に順調ですね。先日、トレーニングマッチがあったんですけど、試合のフィジカルデータが以前とはまったく違うものになっていました。現代サッカーでは、ハイスピードの距離、強度が重視されるんですが、スプリントの数であったり、そういうデータがとても良くなっていました。ハノイの選手たちが、いわゆる現代サッカーに沿った形へと変化しているという実感がありました。実際に『プレーがしやすくなった』と皆が言ってくれています」
――それこそ、岩政監督の指導の成果だと。
「選手たちの取り組みとの相乗効果です。僕自身が、変えたいと考えて、日々トレーニングしていることが、形になってきているなと実感を得ています。7人がアジアカップのベトナム代表に招集されているので、選手が足りなくて、トップチームに登録していない若い選手を練習パートナーにしています。そういう選手も含めて、形を作ることができています。
彼らは日本人みたいに、言われたことはしっかりやろうという姿勢があります。だから、僕がきちんとビジョンを提示できれば、すぐにプレーに反映され、変化が生まれるんです。僕の提示が誤っていれば、良くはならない。日本だと選手たちにある程度基礎があるので、ここまでの変化は起きない。だからこそ、指導者としての力が問われる。すごく、貴重な経験ができていると思います」
――東南アジアというと、人々がのんびりしている印象がありますが、そういう日本との習慣や文化のギャップに戸惑うことはありませんか?
「僕は10年前、選手としてタイのBECテロ・サーサナFCに所属していました。あのときの経験がある種の免疫になっているなと感じますね。タイでもベトナムでも日本と同じような時間の流れ方はしていません。いろんなことを先読みして行動する文化はないので、『まだこれができていないの?』とか、直前になって話が変わるとか、予期せぬ事態が毎日起きています。
練習の作り方、準備の仕方……あらゆるものが違うので、10年前はそれがストレスだったけれど、今は『これは文化の違いだから』と、冷静に受け入れられるようになりましたね。タイ時代は選手のひとりだったけれど、今は監督という立場ですから、僕がイライラしてしまうと、周囲の空気が変わってしまう。そういう意識を持って取り組んでいます」
――ハノイFCでどのようなサッカーをしたいと考えていますか?
「ベトナムで主流のスタイルは、堅く守って、カウンターというものです。ハノイFCはおそらく別のスタイルを採り入れようと、以前はヨーロッパ出身の監督が指揮を執っていました。ただ、開幕前のACL(アジアチャンピオンズリーグ)で浦和レッズに0-6で負けたこともあり、今季開幕前に監督を解任し、その後は監督代行としてベトナム人が指導してきたけれど、次は日本人にトライしようと考え、僕に任せてみようとなったようです。
ハノイFCの仕事を始める前に、全試合の映像を見て、すべての選手を把握しました。僕がやりたいサッカー、ボールを持ち、守備も攻撃も連動して、相手を押し込んでいく攻撃的なスタイルが、うまくできそうだなと感じました」
――それは鹿島アントラーズ時代にできなかったこと?
「鹿島でもやろうとしたけれど、当時の選手にはうまくフィットしないと判断し、方向転換した部分も当然あります。そういう意味では、やりきれなかったことを、ハノイFCではやれそうだなと。それはどちらが良い悪いということではなく、チームを編成する選手を活かすという意味での判断です」
41歳、残りのサッカー人生をどう歩くか、悩んだ
――そもそも、ハノイFCの監督に就任した経緯はどういうものだったのでしょうか?
「選手でも、監督でもそうですけど、オファーというのはいろいろな段階があります。『ちょっと関心があるから、状況を聞いてみよう』という打診も世間では、オファーというふうに捉えることもありますよね。そういう意味では、12月初旬に鹿島退団が決まったころに打診がありました。でも、実際に動き出したのは、1月に入ってからです」
――鹿島退団が発表されたのが、12月5日でした。すでに国内の他クラブは、翌シーズンの準備が始まっている状況だったと思います。
「そうですね。それでも『鹿島で5位という成績を残したんだから、待っていれば、半年後くらいには、遅くても1年後にはオファーがあるから、待っていればいい』と言ってくれる方もいました」
――成績不振で監督が交代するクラブを待つということですね。
「もし、僕が50歳だったら、1年くらい休んで、その後に良い話があれば、監督を受ける……という選択もあったと思います。でも、僕はまだ41歳で、鹿島で1年半しか指揮を執れなかった。監督として、ようやく見えてきたものがあり、試したいことがたくさんあるなかで、休むというのは、正直、ピンと来なかったですね」
――鹿島アントラーズのようなトップクラブの監督というのは、指導者が目指すべき目標のひとつだと思います。コーチからの昇格だったとしても、40歳でその仕事をすることになりました。結果的に1年半で離れたわけですが、ご自身のキャリアデザインをどう捉えていましたか?
「1ヵ月間、思考を巡らすなかで、強く思ったのは、僕は40歳で監督をやらせてもらったわけですが、41歳でそこから離れたときに、残りの人生をどう歩くかは、すごく悩ましいと感じていました。というのも、40歳から監督を初めて、少しずつ上を目指し、50歳でトップクラブの監督をやるのが一番理想的なのかもしれません。けれど、僕は違いました。
日本での指導者ライセンスでは、ヨーロッパで指導はできません。だから、僕ら日本人指導者にとってのトップは、日本のトップクラブの監督になること。それをすでにやってしまったが故に、これからどうすればいいのかと」
自分がやりたいサッカーというものが定まってきた
――以前、お話を伺ったときに「サッカー界でいろんなことにトライしたい。50歳になるまでは指導者の道を追及したい」と話されていました。
「そうですね。プロにこだわらず、大学やJFL、社会人などカテゴリーを変えるという選択肢もあるし、監督や選手を編成する強化部という選択肢もありました。指導者ではないけれど……。そういうなかで、ハノイからの話が前進しました」
――やはり、現場に立ってみると、思い悩んでいたことも前へ進められていきますか?
「鹿島を離れてから、パソコンに、鹿島での試合映像やヨーロッパの映像をまとめて整理する作業を始めました。クラブが決まっても、フリーの状態であっても、自分の次のステップのために、半年後か1年後かわからないけれど、再チャレンジするために整理しようとしたけれど、なかなかはかどらなかったんです。
でも、現場に立つことで、選手が目の前にいることで、やっぱり事象がリアルになります。『この選手のために何が必要か』ということを考えると、自然と過去のことも整理がついてくるんですね。そういう意味でも現場にいることができて良かったと痛感しています。新しい環境で、サッカー的なスタイルも、落とし込み方も、鹿島時代とは違います。自分がやりたいサッカーというものが定まってきました」
※2回目に続く(2月19日公開予定)