三好康児、武藤嘉紀、柴崎岳、中島翔哉……。己の成長、その先にある目標を目指して挑戦し続けるフットボーラーたちに独占インタビュー。さらなる飛躍を誰もが期待してしまう彼らの思考に迫る。2人目は、2021年、6年ぶりにJ1に復帰したヴィッセル神戸FW・武藤嘉紀。3回目。
なぜ、武藤嘉紀は日本に戻ってきたのか
6年過ごしたヨーロッパから2021年8月にJリーグに電撃復帰して1年が経とうとしているが、武藤嘉紀には依然として自らの選択を明確に理解できていないところがある。
なぜ、Jリーグに戻ってきたのか――。
スペインのADエイバルとの期限付き移籍は契約満了したが、レンタル元のニューカッスル・ユナイテッドFCとの契約はまだ残っていた。ヨーロッパの他のクラブからのオファーもあった。そして何より、まだまだヨーロッパでやっていく自信もあった。
「どこでプレーしようかと考えていたとき、ヴィッセル神戸からありがたいオファーをいただきました。話を聞いて、『アジアナンバーワンのクラブになる』というヴィッセル神戸のビジョンにすごく共感して。僕自身、まだタイトルを獲ったことがないですし、チームの目標に向かって自分の力をすべて出したいと思った。それに家族のことも。コロナ禍で家族は日本に帰国していたので、家族ともっと会いたいという気持ちもありました」
だが、それだけが理由ではなかった。
「Jリーグはシーズンの真っ只中なので、日本に戻ったら、すぐにサッカーがやれるな、とも思いました。あの頃、飢えていたんです、サッカーをすることに。厳しいプレッシャーや大きな期待を受けてプレーすることに。だから、直感というか、今は神戸に行かなくちゃいけない――そんな思いに支配されたんです」
武藤嘉紀が驚愕したJ1のチームとは
こうして武藤は2021年8月21日の鹿島アントラーズ戦で7年ぶりとなるJリーグのピッチに立ち、いきなりアシストをマークする。'21年シーズンは14試合に出場し、5得点8アシストの結果を残した。
久しぶりにプレーしたJリーグのレベルを、武藤は驚きをもって語る。
「僕がいた頃より、間違いなくレベルは上がっていると思います。スプリント量やスピードは海外に引けを取らないし、戦術的にオーガナイズされているチームも多い。どのチームも分析や対策をしっかりやってくる。それにリーグ全体のチーム力にそんなに差がないから、簡単なリーグではないと感じています」
なかでも驚かされたのが、川崎フロンターレだった。武藤が以前、Jリーグでプレーした’14年、’15年シーズンもボールを保持してゲームを支配するスタイルだったが、技術や戦術がより洗練され、勝負強さも備わっていた。
「特殊ですよね、あのパス回しは。あれだけパスを回して、なおかつしっかり決めてくる。あんなチームは、海外でもないです。エイバル時代にバルサ(FCバルセロナ)と対戦しましたけど、バルサだってあそこまでつながない。僕がヨーロッパでプレーしている間に、どんな進化があったのか。あのサッカーを確立したのはすごいし、面白いですよね」
戦力が拮抗したJリーグの難しさは、まさしく今季の神戸が直面しているところだ。
シーズン途中に武藤と、日本代表のエース・大迫勇也を補強した’21年シーズンはクラブ史上最高となるリーグ3位の成績を残したものの、’22年シーズンは開幕から12試合未勝利で最下位に沈む。3月に三浦淳寛監督が解任されると、このインタビュー当日には、後任のミゲル・アンヘル・ロティーナ監督もクラブを去ることになった。
「ファン・サポーターの方々には申し訳ない気持ちでいっぱいです。ただ、すごく厳しい状況ですけど、何か燃えてくるんですよね。逆境から自分がチームを救いたいという気持ちがある。苦しいですけど、死んでないというか。自分がこの状況を、チームを、変えてやるんだって。強くいたい、勝ちたい、点を取りたい……その湧き上がる思いがなくなったら、心が死んだら、サッカー選手を辞めます。でも今は、ハートが燃え続けている」
このインタビューの4日後、サガン鳥栖に勝利した神戸はそこから公式戦4連勝を記録し、16位に浮上した。反撃の狼煙となったのは、鳥栖戦での武藤の2ゴールだった。そして7月13日、東アジアのチャンピオンを決めるE-1サッカー選手権の日本代表メンバーが発表され、その中に武藤の名前があった。
4回目に続く。
武藤嘉紀/Yoshinori Muto
1992年生まれ。慶應義塾大学2年時からFC東京の特別指定選手となり、大学3年時にJリーグデビュー。2014年、FC東京に正式加入。新人最多タイ記録の13ゴールを記録、Jリーグベストイレブンに。’14年、日本代表デビュー。’15年ドイツのマインツに移籍。その後、ニューカッスル、エイバルへ。’21年にJ1神戸に加入。2018年ロシアW杯メンバー。日本代表出場数29。