歌手・五木ひろしが通算175枚目のシングル「時は流れて…」を9月にリリース。2024年で歌手生活60周年を迎えるレジェンド五木ひろしの半生に迫る。連載10回目。過去記事はコチラ。
孤軍奮闘
倖せを
求めるならば
耐えよ
喜びを
求めるならば
辛抱せよ
生きてゆくなら
努力せよ
五木ひろし
これは五木ひろしの個人事務所、五木プロモーションに掲げられている社訓だ。
「あるとき、これだ!と思って書きました。僕はいつも、松下幸之助さんや稲森和夫さんの本を読み、自分の支えになる言葉を探しています。そして、自分自身の生き方に役立つ言葉を見つけると、積極的に取り入れるようにしています。ふり返ると、人間に必要なのは、忍耐と辛抱と努力だと思ったのです。人間には、努力はもちろん大切で、そして忍耐、辛抱の連続ですよ」
1971年の「よこはま・たそがれ」の大ヒットから日本の歌謡界の一線で歌い続けている五木だが、それでもいく度となく悔しい思いをし、その状況に耐えてきた。
「孤軍奮闘。僕はずっと多勢に無勢の状況で闘ってきました」
五木は悔し気に、でもかすかに誇らしげに話す。
「最初に所属していた事務所は野口プロモーションでした。芸能プロダクションではなく、ボクシングジムです。1979年に独立してからは五木プロモーション。個人事務所です。資本力のある芸能界の大手事務所に所属することなく50年以上歌ってきました。とくに賞レースでは、厳しい戦いを強いられてきました」
もっとも悔しかったのは「追憶」を歌った1987年の日本レコード大賞受賞式。
「あの年、『追憶』でレコード大賞は獲れると信じていました。売れましたから。NHK紅白歌合戦でも、大トリで歌うことが決まっていました。それに、レコード大賞はTBSの賞です。そのTBSの人気歌番組『ザ・ベストテン』でも『追憶』が1位でした」
敵はいない状況、のはずだった。
「当時レコード大賞授賞式は大晦日に行われていました。1987年の会場は日本武道館です。九段にある武道館でレコード大賞を獲って、渋谷のNHKホールへクルマで駆けつけて、紅白のトリで歌い1年を締める。それがあのころは名誉とされていました」
しかし、五木は大賞を逃す。レコード大賞は、近藤真彦の「愚か者」が受賞した。
「驚きました。セールスも、歌謡番組の視聴率も、どれも負けているとは思えませんでしたから。受賞の発表のときは悔しくて、義理の拍手すらできませんでした、僕はただうなだれています」
しかし、現実を受け入れるしかない。
「僕は個人事務所でやっています。小さな所帯は、大会社にはなかなか勝てない。マッチに対してネガティヴな感情はまったくありません。当時の歌番組の楽屋は個室ではなく、多くの場合大部屋でした。男の歌手は世代に関係なく、ひとつの広い部屋でメイクをしたり、衣装を着替えたりしていました。だから、自然と仲よくなるんですよ。マッチやトシ(田原俊彦)ともいつも一緒にいました」
それぞれがそれぞれの環境や条件のもとで戦っている。
「賞レースに限らず、戦いは必ず勝利できるわけではありません。相手のあることですから。みんな必死ですから。それでも戦わなくてはいけない。歌い続けるしかありません」
こうした体験が「倖せを求めるならば耐えよ 喜びを求めるならば辛抱せよ 生きてゆくなら努力せよ」の言葉になった。
大衆の支持こそが真実
「それでも、僕には頼もしい味方がいます。大衆です。レコード大賞をもらえない年でも、大衆はいつも支持してくれました。それは何に表れるのか――。視聴率です。数字にうそはありません。事務所の力関係もありません。受賞できない年でも、そのときに世論が、えっ? と疑問を持ってくれれば。なにかの間違いじゃないの? と異を唱えてくれれば。それが正しいジャッジだと僕は思っています。勝ったときも、負けたときも、です」
忍耐を求められるとき、五木はすでにこの世を去った母親の顔を思い出す。
「人に後ろ指さされることだけはしちゃいけないよ」
女手一つで4人の子を育てた母は五木にそれだけを言い続けた。
「ずるいことはしない。うそはつかない。空の上のおふくろと約束をして、今も僕は暮らしています。もしも僕が卑怯なことをしたとして、誰も気づかなくても、誰もとがめなくても、空の上でおふくろは見ています。だから、僕は誓ってうそをついてきませんでした。口パクでコンサートをしたこともありません。ずるいことをせずに真っ向から努力を重ねれば、きっと報われます」
(※第11回に続く)