戦後初の三冠王で、プロ野球4球団で指揮を執り、選手・監督として65年以上もプロ野球の世界で勝負してきた名将・野村克也監督。没後3年を経ても、野村語録に関する書籍は人気を誇る。それは彼の言葉に普遍性があるからだ。改めて野村監督の言葉を振り返り、一考のきっかけとしていただきたい。連載「ノムラの言霊」10回目。
ONがひまわりなら、私はひっそり野に咲く月見草
選手としても監督としても多大なる実績を残した野村克也。数々の名言も残している。
「1年目に種をまき、2年目に水をやり、3年目に花を咲かせてみせましょう」をはじめ、記者としてもネタになる使いたい野村語録はあふれんばかりだった。野村克也のあのすぐれた言語感覚は、どうやって磨かれたのだろうか。
さかのぼること1973年8月8日、通算563号だった野村(南海=現・ソフトバンク)は、王貞治(巨人)に並ばれた。この年以降、通算本塁打争いで野村は王の後塵を拝することになる。
1975年、野村が王に続いて史上2人目の通算600号を達成したとき、後楽園球場(現・東京ドーム)の観客はわずか7000人であった。後楽園球場を本拠地にする巨人の試合ではふだん4万人もの大観衆を集めていた。
「同じホームランなのにどこが違うんだ。セ・リーグとパ・リーグの違いだけではないか」
野村は少年時代の、母親とした夕飯時の会話を思い出した。
「おかん、陽が暮れているのに、あの花は綺麗に咲いているなぁ。不思議やなぁ」
「あれはな、月見草といって、夜に咲く花なんだよ」
野村は自分のことを月見草になぞらえた。一生懸命咲いているのに、誰にもじっくり見てもらえない。
野村が通算600本塁打を放った1975年、マスコミ取材でのあの言葉が生まれた。
「ON(王貞治と長嶋茂雄)がひまわりなら、私はひっそり野に咲く月見草」
野村監督兼捕手は、自分が打っても、チームが勝っても、何とかマスコミに取り上げてもらおうとした。
「こういう見出しで、こういうネタの記事はどうや。新聞、売れるで!」
語呂を考えたり、韻を踏んだりして、新聞の見出しをみずから提供するようになったのだ。
江夏豊が揺さぶられた野村克也の言葉
江夏豊(阪神)が江本孟紀(南海)とのトレ―ドで移籍したのは1976年。
同じ大阪を本拠地とする球団なのに、あまりの人気格差に江夏はふてくされ、麻雀ばかりしていた。心配した江夏の義母が、野村と同じマンションの隣の部屋を購入して、江夏を住まわせた。
不振とはいえ、根っからの野球好きな江夏は、夕飯後毎夜、野村と野球談義を重ねた。夜11時から実に朝5時までだ。2人のタバコの吸い殻で、灰皿が山盛りになった。
「豊、もう先発完投は厳しい。でも、幾多の修羅場をくぐり抜けてきたお前の投球術は他の追随を許さない。これから野球界は、先発・中継ぎ・抑えという分業制の時代がくる」
「先発完投こそ、投手の花だ」
「お前がリリーフの分野で、日本球界に革命を起こしてみろ!」
「カクメイ!? 革命か…。わかった。やったるわい!」
先発完投が花形とされていた昭和の時代に、野村は江夏にクローザー転向を提案したのだ。江夏への口説き文句は前もって考えていたのか、と野村に訊いた。
「いや、自然に口をついて出た。いつもマスコミを惹きつけるために頭をひねっていたのが、とっさに役立った。プライドの高い江夏の心の琴線に触れたんだろうな」
江夏は言った。
「お互い疲れて眠くなってきたとき、不意にあの言葉を聞いた。オレは司馬遼太郎の『燃えよ剣』が愛読書。革命とか維新という言葉に心惹かれる」
野村と江夏、もう一つ面白いエピソードがある。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」。野村語録のひとつだが、これは中国古典『孫子』からの引用だ。
勝負事には「べからず」集のようなものがあって、「これはしてはならない」というものがある。
野球なら例えば失策(エラー)をしてはならない。四球を出してはならない。逆に、自軍の体制が整っていなくても、不思議と勝ててしまう場合がある。
野村は「負けた試合」から学ぶことが多くあると語っていたが、江夏は「勝った試合」から勝てた理由を考えた。これは捕手と投手の意識の相違で興味深かった。
「マー君、神の子、不思議な子」
ヤクルト、阪神の監督を経て、2006年に野村は楽天の監督に就任した。
楽天は、近鉄がオリックスに吸収合併されたとき、メンバーに入れなかった選手の寄せ集め集団。2005年に続き、2006年も最下位。
負けたとき、マスコミは監督に「ひとこと」コメントを求めた。
「負けに不思議の負けなし」。
野村のボヤキはパワーアップして、止まらない。これが実に面白かった。
テレビがカメラを回すようになった。いつしか球団サイドは記者の「囲み取材」の後ろ側に球団ロゴが入ったボードを設置した。これが「野村のボヤキ」インタビューの始まりである。
今だから話せるが、ある程度、楽天の勝利が濃厚になった時点で、野村は試合後にしゃべるネタをベンチで考え始めていたという。全国放送で間違ったことは言えない。側近に四文字熟語や英語を調べさせ、確認していた。語呂合わせも考えていた。
2007年、マー君こと田中将大1年目。8月3日のソフトバンク戦で6回5失点ながら打線の援護で勝利投手になった。
「あいつは神様にでも守られているんちゃうか。不思議な子やなぁ」
そこからあのフレーズが誕生した。「マー君、神の子、不思議な子」。
野村はこうも言っていた。
「マスコミを取り込むのもプロ野球の監督の仕事。だから、ときにはバカな話のひとつも言わなきゃいけないこともあるんだよ」
そんな土壌があったせいか、私が野村の書籍の取材企画を担当するとき、毎回、訊かれたものだ。「今回の本のタイトルは何だ? 売れそうか?」と。
まとめ
注目を浴びるプロ野球の監督は、球団の広報宣伝部長も兼ねていると言っても過言ではない。試合に勝つだけでは取り上げてもらえない時代。ここ一番の場面には、入念に準備したフレーズも必要なのだ。
著者:中街秀正/Hidemasa Nakamachi
大学院にてスポーツクラブ・マネジメント(スポーツ組織の管理運営、選手のセカンドキャリアなど)を学ぶ。またプロ野球記者として現場取材歴30年。野村克也氏の書籍10冊以上の企画・取材に携わる。