2024年で歌手生活60周年を迎えるレジェンド、五木ひろしの半生に迫る全6回の短期連載をまとめて紹介。※2023年4月〜5月掲載記事を再編
2. 「“人”という字は、左右で組み合い、闘っている」
3. 五木ひろしの歌手生命を変えた、大一番とは
4. 「ひろしが女でなくてよかった」美空ひばりが五木ひろしにかけた言葉
5. 父、母、腕時計、半世紀以上も第一線で歌い続ける原動力
6. 「子供を叱れない」五木ひろしが施した教育法とは
1. 五木ひろしは、なぜ50年以上も“横浜”を歌い続けるのか
歌謡界のレジェンド、五木ひろしが通算174枚目のシングル「だけどYOKOHAMA」を2023年春にリリースした。ラテンパーカッション。ゴスペルのクワイアのようなコーラス。あらゆる音楽のテイストが感じられる。さまざまな音楽の要素をクロスした華やかな日本の歌謡曲らしいサウンドだ。
時代とともに移り変わる横浜を歌う五木には哀愁も感じる。歌詞にあるバンドホテルは1999年にクローズし、跡地にはMEGAドン・キホーテが建った。1980年代にブームになった本牧からは、いつしか人影が消えた。1990年代後半、人の流れの中心は元町や山下町から、クイーンズスクエアのある、みなとみらいエリアへと移っていった。そんな横浜への思いを五木は歌にのせている。
ここで紹介するまでもないが、五木のキャリアは輝かしい。NHK紅白歌合戦出場連続50回の新記録、日本レコード大賞受賞2回。同最優秀歌唱賞3回。金賞10回。さらに、紫綬褒章、旭日小綬章を受章している。
「『だけどYOKOHAMA』は、僕の横浜シリーズの完結編と思って聴いていただきたい」
そう語る歌手・五木ひろしがブレイクしたのは1971年の「よこはま・たそがれ」だった。五木にとって、横浜は特別な街なのだ。ではなぜ、五木は横浜を歌い続けるのか――。
2. 「“人”という字は、左右で組み合い、闘っている」
2023年3月に通算174枚目のシングル「だけどYOKOHAMA」をリリースした五木ひろし。華やかであり、それでいて哀愁も感じられる歌謡ナンバーだが、当初は別の曲をメインにする予定だった。
「実はカップリング曲の『時は流れて…』をメインに考えていました。初めて自分で作詞・作曲をした曲です。『時は流れて…』は僕そのものなんですよ。前半はフランク・シナトラの『マイ・ウェイ』のように今までの歩みを歌い、後半は未来に向けて歌っています」
五木自身のありのままの気持ちを歌詞につづった。
「来年で歌手生活60年目になりますが、ここまで頑張ってきた思い、そして子供の世代、孫の世代への思いを歌詞に込めました。結婚したとき、子供ができたときなど、節目節目で僕は自分の思いを書き留めていましてね。それを作品にしています。
五木ひろしの歌手名になって52年間歌えてきたこと。それは奇跡です。これまでにたくさんの先輩がたを見てきましたけれど、50年を超えて現役で歌い続けてきた人はそうそういません。それを思うと、ありがたい」
なぜ半世紀以上も第一線で歌ってこられたのか――。
3. 五木ひろしの歌手生命を変えた、大一番とは
「デビューして58年のキャリアの間に、僕は2度進退をかけた大勝負に出ました。1つ目は歌手名、三谷謙時代の1970年。歌謡番組『全日本歌謡選手権』に出演したことです。2つ目は1979年。所属事務所から独立して五木プロモーションを興したことです」
五木ひろしはキャリアをふり返る。
讀賣テレビ系列で1970年から1976年まで放送されていた『全日本歌謡選手権』は、プロとアマチュアの垣根を取り払い、純粋に歌で対決する音楽番組。10週間勝ち抜くとグランドチャンピオンとなり、レコーディングのチャンスをつかむことができる。五木のようにデビュー後ヒット曲に恵まれない歌手にとっては再起をかける場でもあった。
審査員は、淡谷のり子、船村徹、竹中労、平尾昌晃、山口洋子……など。そうそうたる顔ぶれだ。番組のスタート時はとくに大人気で、視聴率は毎週25%を超えていた。銀座や新宿のクラブでギターの弾き語りをしていた時期に懇意にしていた地方局のディレクターに出演を勧められ、五木は悩みに悩んだ。
「10週間勝ち続けるのは並大抵ではありません。出演するのは歌手として生きるか死ぬかの勝負です。重鎮の審査員だけでなく、全国の視聴者の見る番組で敗北したら、歌手生命を断たれます」
それでも、五木は挑戦を決意した。
4. 「ひろしが女でなくてよかった」美空ひばりが五木ひろしにかけた言葉
「ひろしが女でなくてよかった」
美空ひばりのこの言葉は、今も五木ひろしの支えになっている。
「冗談交じりかもしれませんけれどね。それでも、ほんの少しでも、ひばりさんが僕をライバル視してくれたならば、それは誇りです」
五木が初めてひばりの姿を見たのは、小学校4年生の夏休み。時代劇映画のロケで、ひばりが大川橋蔵らとともに福井県の美浜を訪れた。大勢のギャラリーのなかで、五木は目を輝かせた。
「5歳から、僕はひばりさんの歌を歌っていました。とくに『リンゴ追分』が得意でした。その本人を見ることができて、僕はもう有頂天ですよ」
撮影中、一瞬、ひばりと目が合った。そのとき、笑いかけられた気がした。僕は歌手になる――。はっきりと思った。
歌手名・松山まさるで日本コロムビアからデビューしたときに、会社のイベントで何度か顔を合わせたものの、美空ひばりとプライベートでの交流が始まったのは、五木ひろしになってからのこと。
5. 父、母、腕時計、半世紀以上も第一線で歌い続ける原動力
五木ひろしの時計への思いは強い。自分が結婚したとき、美空ひばりにピアジェをペアでプレゼントされたことは前回に書いた。そのお礼に五木はひばりの息子、加藤和也が結婚する際、ペアの時計を贈っている。そして「自分へのご褒美」にも時計を買ってきた。
「コルム、カルチェ、ロレックス、パティック、ブレゲ、オーデマ・ピゲ、リシャール・ミル……。頑張ったと胸を張っていえるとき、そのメモリアルで、自分に時計を買っています」
購入するときは「この時計をしても恥ずかしくないだろうか?」と自分に問いかける。
「自分の身の丈に合っているかどうかが大切です。仕事でたいした成果をあげていないのに、高価な時計を身につけるほど恥ずかしいことはありません。クルマも同じですが、自分の成果、自分の社会的な評価を常に客観視するように努め、それに見合うものを持つことは、とても大切だと感じています」
時計は男の形見、とも思っている。
6. 「子供を叱れない」五木ひろしが施した教育法とは
五木ひろしには3人の子供がいる。孫もできた。五木は溺愛している。五木自身は小学生のときに父が家を出てから、母親と兄姉の手で育てられた。今でいうシングルマザーの家庭。しかも、4人兄弟。母親は働いて子供たちを育てることに全力を注がなくてはならない。子供と遊ぶ時間などなかなかつくれない。だからなのか、五木は自分の子供に対して、過度に愛情を注いでしまうという。
「過保護なんですよ。子供をまったく叱れない父親です。自分が親にしてもらえなかったことを自分の子たちには全部やってきました。学校の運動会も学芸会も全部参加しています。
運動会で子供たちが電車になって、グラウンドをまわる競技がありましてね。僕は線路の脇で魚釣りをしているオジサンの役をやりました。ボール投げ競技では、球拾いもやりました。あれ、あの球拾いしている人、五木ひろしに似てるわよね? そんな声が聞こえましたけれど、似ているんじゃなくて、本物の僕です。
僕は日本のどこで歌っていても、学校行事には駆け付けます。夜、北陸でショーが終わって、翌日が子供の運動会だったら、必ず東京に戻ります。最終便も終電も終わっているので、深夜にクルマを飛ばす。早朝に東京に着いて、車内で仮眠をとってから運動会で走ったこともありました」
ふだんの生活のなかで子供たちを厳しく叱ることができないことを反省してはいた。