「WBC優勝」と「W杯ベスト16」。日本の立ち位置を考えると、到達した結果の困難さは、その結果ほどには違っていない。だが、栗山英樹監督への称賛に比べると、森保一監督への評判はもう少し複雑だった。それはなぜなのか。スポーツライター・金子達仁が不人気のメカニズムに迫る。連載1回目。
野球とサッカーの監督評の違い
監督という仕事は、概ね、結果論で評価される。
WBCが終わったあとの日本から、栗山秀樹監督の手腕を疑問視する声は消滅した。彼の打った手はすべて肯定され、失敗は何もなかったかのようでさえある。
勝利という結果が、栗山監督の評価を決定づけた。野球という競技の監督にとって、結果に優る過程はない。どれほど大向こうを唸らせる策を講じようが、結果につながらなければ評価には至らず、逆にたとえ愚策に見えようとも、結果によっては英断とされる。打撃陣が2ケタ安打を放ち、投手陣が失点を1に抑えたとしても、0-1で敗れてしまえばほとんど何の意味もなさないと見なされがちなのが、野球というスポーツの特徴でもある。
サッカーの場合は、少し話が違う。
たとえチームを勝利に導いたとしても、その内容が退屈であったり劣勢だったりした場合、チームを率いる人間には称賛どころか、罵声が浴びせられることもある。結果はもちろん大切だが、内容を伴わない結果は認められないこともあるのが、サッカーにおける監督という仕事である。
2022年のカタール・ワールドカップで、日本代表はグループ・ステージを突破し、決勝トーナメント1回戦で前回大会準優勝のクロアチアとPK戦にもつれこむ接戦を演じた。内容としてはかなりの劣勢だったとはいえ、優勝経験国のドイツ、スペインを相手に演じた逆転勝ちは、日本国内を熱狂させただけではなく、敗れたドイツ、スペインのメディアからも高く評価された。
もちろん、“サムライ・ジャパン”が残した優勝という結果に比べれば、ベスト16で終わった“サムライ・ブルー”の結果には物足りなさも残る。ただ、世界第二位の規模とレベルを誇る国内リーグを有する野球と、選手の平均年俸が世界のベスト10にも入れないJリーグを楚とするサッカーとでは、世界における立ち位置が相当に異なる。到達した結果の困難さは、「優勝」と「ベスト16」という結果ほどには違っていない。
だが、国中が栗山監督への称賛一色に染まったのに比べると、森保一監督を迎える空気はもう少し複雑だった。すぐに大晦日の紅白歌合戦で審査員を務めることが決まった一方で、その手腕ややり方に対する不満は、いわゆるコアなファンを中心に根強く燻っていた。過去に森保監督と同じく、日本をワールドカップベスト16に導いた、あるいはベスト8にまでたどりつけなかった西野朗、岡田武史らがほぼ好意的に迎えられたことを思えば、森保監督に向けられる目は相当に厳しかった。
この傾向は、ワールドカップ前からあった。
最終予選の初戦、ホームでオマーンに苦杯を喫するという最悪のスタートを切った日本は、アウェーでのサウジアラビア戦でも星を落とし、絶体絶命のピンチに追い込まれた。実はこの2敗を含めてもなお、日本代表における森保監督の勝率は日本サッカー史上最高のものを残していたにも関わらず、ネット上では更迭を求める声が吹き荒れた。
中盤から巻き返し、最終戦を待たずにカタール行きを決めても、森保監督に対する逆風が吹きやむことはなかった。森保は無能。森保を更迭すれば日本は勝てる。そんな声がネット上では激しく飛び交い、擁護する声はほぼ皆無といってもいい状況だった。
サッカーの世界では、結果を残しても高い評価を得られない監督がいる。
だが、飛び切りの結果を残すことで、低評価を覆した監督もいた。
アルゼンチン代表に見る、人気監督
1986年のメキシコ・ワールドカップでアルゼンチンを率いたカルロス・ビラルドは、母国を史上初の世界一に導き、カリスマ的な人気を誇った前任者のセサル・ルイス・メノッティに比べると、極端に人気のない監督だった。
不人気には、もちろん理由があった。
1978年の地元開催で初優勝を遂げるまでのアルゼンチンは、ワールドカップにおける実績という点で、ライバルのブラジルはもちろん、川向かいの小国ウルグアイにも大きく後れをとっていた。
後塵を拝していたのは実績だけではない。ブラジルならば「魔術師」、ウルグアイには「奇蹟の国」といったイメージがあったのに対し、1966年ワールドカップで悪辣な反則を連発したアルゼンチンには、英国のメディアから「けだもの」なる“称号”が贈られていた。彼らは、世界の嫌われ者だった。
だが、メノッティのチームは、アルゼンチン・サッカーに長くついて回った悪評を一気に吹き払った。彼は選手たちにラフプレーを禁じ、密集地帯での壁パスを多用する新たなスタイルを構築した。長身、長髪の男たちがゴール前に雪崩込んでいく様はアルゼンチンのみならず世界中を熱狂させ、背番号10をつけたマリオ・ケンペスは「闘牛士」と呼ばれる世界的なスーパースターにのし上がった。
なぜ森保監督は、不人気なのか
どこの世界でも、攻撃的なサッカーを標榜するチームは、監督は愛される。ところが、後任となったビラルドは、クラブ・チーム(エストゥディアンテス)の時代から、守備的サッカーの信奉者として知られた人物だった。ファンの、メディアのアレルギー反応は強かった。
それでも、ディエゴ・マラドーナという希代の天才を擁し、彼にすべてを任せるスタイルを執った1986年メキシコ・ワールドカップでのアルゼンチンは、組み合わせに恵まれたこともあり、2大会ぶり2度目の優勝を果たす。
そのとき、スタンドに掲げられた横断幕は、全世界に広く伝えられた。
「ペルドン ビラルド、グラシアス」
直訳すれば、「ごめんなさいビラルド、ありがとう」という意味になるこの横断幕は、逆風と戦い続けた指揮官にとって、黄金のカップにも負けないほどの重みがあったかもしれない。勝ったことで、彼は報われた。
森保監督は日本を優勝に導いたわけでも、目標としていたベスト8を達成したわけでもない。ただ、優勝経験があるわけでも、マラドーナがいるわけでもない日本の現状を考えれば、ベスト16という結果は、合格点とまではいかないものの、まずまず及第点はつけられる結果といってもいい。
それでも、日本のコアなファンは、1986年のアルゼンチン人とは違った反応を見せた。ペルドンもグラシアスもなく、続投が決定した際には強く反発する声があがった。
なぜ森保監督は、不人気なのだろうか。
※続く(6月14日10時公開)
金子達仁/Tatsuhito Kaneko
1966年神奈川県生まれ。スポーツライター。ノンフィクション作家。1997年、「Number」掲載の「叫び」「断層」でミズノ・スポーツライター賞を受賞。著書『28年目のハーフタイム』(文春文庫)、『決戦前夜』(新潮文庫)、『惨敗―二〇〇二年への序曲―』(幻冬舎文庫)、『泣き虫』(幻冬舎)、『ラスト・ワン』(日本実業出版社)、『プライド』(幻冬舎)他。