2022年カタールW杯、強豪国を破り、ベスト16という結果を残したサッカー日本代表。だが、森保一監督への評価は少し複雑だった。それはなぜなのか。スポーツライター・金子達仁が不人気のメカニズムに迫る。連載2回目。【#1】【#3】
結果と評価が相反するクリンスマンと森保監督
森保一が新たな日本代表の監督になる──その一報に触れた木崎伸也が真っ先に感じたのは、不安だったという。
「退屈なサッカーになっちゃうんじゃないか。そう思いました」
中央大学の大学院を卒業後、小野伸二に密着するためにオランダに渡り、その後は高原直泰を追いかけてハンブルクに居を構えたこともある木崎は、いまは本田圭佑のYouTubeチャンネルでインタビュアーを務めていることでも知られるスポーツライターである。
彼の不安には、理由があった。
「ぼく、風間(八宏)さんをよく取材していたので、森保さんのサッカーって、それと対局にあると思っていたんです。風間さんはロマンチスト。試合に夢を求める人。森保さんは徹底的にリアリストで、Jリーグの試合を見ていてもワクワクしない印象がありました。ウノゼロ(1-0)のサッカーというか」
ハリルホジッチと西野朗
メディアの中には、どんな監督がどんなサッカーをやろうとも注文をつけずにはいられないタイプもいるが、木崎は違う。
「西野さんのことはめちゃくちゃ評価していました。あの人がチームを任せられたのって、大会のわずか1ヵ月前、直前の直前でしたよね。そこで『君たちの方がヨーロッパには詳しい。意見をくれ』って、自分から選手の方へ寄っていった。一方で、先発は自分で選んで、自分の色も結構出した。あと、攻撃的な姿勢を求め続けていたっていうのも、ぼく的には好印象でした。その前の監督が最悪だったっていうのも関係していたとは思いますが」
その前の監督──ハリルホジッチに対する選手たちの強い不満を、木崎は聞いていた。
「端的にいうと、この監督には戦術がないって選手たちに思わせてしまったのが、ハリルホジッチの失敗だったと思います。本当はあったのかもしれませんが、少なくとも選手たちは、ないと感じてしまっていた。戦術を仕込む作業を放棄してしまったように感じていた。正直、最悪だったと思います」
もし、ハリルホジッチの失敗が選手たちから「戦術がない」監督だと思われてしまったことだとしたら、西野もまた、細かい戦術を落としこんでいくタイプの監督ではない。ただ、言葉の問題もあり、コミュニケーションが途絶えがちだったハリルホジッチとは違い、西野は選手たちにある程度下駄を預け、上からの命令だけでなく、選手同士の話し合いを促した。そのことが、大会直前の就任であったにも関わらず、チームに一体感が生まれた要因ではないかと木崎は見ている。
ロシア・ワールドカップの日本ベンチには、コーチとして森保も入っていた。言ってみれば、木崎を感心させた西野のやり方、手腕を、特等席で見ていたことになる。ならば、森保は西野の系譜を継ぐ者、直系の後継者と見ることもできるはずだが、木崎の不安は消えなかった。
「以前、広島の選手から聞いたことがあったんです。森保さん、自分には攻撃は教えられないとはっきり言っていたって。同じことが代表で起こってしまうのではないか。それが不安でした」
クライフの時代から変貌する、監督に求められる仕事
一昔前のサッカー界であれば、守備を整えるのは監督の仕事、攻撃は選手の才能とイマジネーションに託すというのが、ごくごく一般的なやり方だった。現代サッカーの祖とも言うべきヨハン・クライフにしても、監督としてチームに浸透させていたのは概念であり、フィニッシュの部分は個々の判断に委ねていた。
ボールを奪う時は蟻のように群がり、奪った瞬間に鳳仙花の種のように散らばる。ドリブラーはセンターサークル付近ではなく、ペナルティエリア内で勝負する。前を向いてプレーする選手を増やすために、一人、後ろ向きにプレーする選手を置く。パスとは誰かに出すのではなく、誰かの、どちらかの足の、その横何センチというところまで意識して出すもの。そうした概念を、クライフのチームはペナルティエリア内に22人を詰め込む“ミニ・ゲーム”を繰り返すことで染み込ませていった。
21世紀になってはや四半世紀が過ぎようとしている現在となっても、クライフの信奉者は広く世界に広がっている。いまや世界最高の監督の呼び名を欲しいままにしているマンチェスター・シティのペップ・グァルディオラも、事あるごとに自らの根底にあるのはクライフの考え、発想であることを公言している。
ただ、すべてのスポーツがそうであるように、サッカーもまた、進化を続けている。そして、サッカーの場合、21世紀に入ってからの進化、変化の度合いは他のスポーツよりも大きいかもしれない。
というのも、20世紀までのサッカーは、基本的に何をやってくるかわからない相手と戦うものだった。予めわかっていたのは、せいぜい相手が強いか、弱いか。あるいは誰がエースで誰が弱点か、ぐらいで、どんな試合になるかは監督も選手も、始まってみなければわからなかった。
いまは違う。代表やトップカテゴリーのチームでなくても、自分たちが週末に戦う相手にどんな選手がいて、どういう攻撃パターンが多いかを理解した上で試合に臨む。1974年のワールドカップでオランダに敗れ、トータルフットボールの引き立て役となってしまったブラジル代表は、たった一人、キャプテンだったリベリーノを除いて、誰もオランダがどんなサッカーをやってくるか、知らなかったという。
「わたしはみんなに試合の8ミリを見ておくべきだと言ったんだ。だが、誰も聞く耳を持たなかった。そんな新興国のサッカーなんか見たって仕方がない。そう言ってね。だから、彼らがあの極端なオフサイドトラップをしかけてくると知っていたのはわたしだけだったし、戸惑わなかったのもわたしだけだった」
後にJリーグでも監督を務めることになるリベリーノは、そう言って苦笑していたことがあるが、乱暴に言い切ってしまえば、彼の言葉に耳を貸さなかった仲間たちこそが、20世紀の標準的なフットボーラーだった。
ほぼ暗中模索の状態で臨む試合と、ほぼ相手の特徴や出方を予想した上で挑む試合とでは、当然、監督に求められる仕事もかわってくる。
20世紀と21世紀でリーダーに求める条件
サッカーの監督という立場を船の船長に置き換えてみるとわかりやすいかもしれない。
20世紀における監督は、言ってみれば大航海時代の船長のようなものだった。待ち受けているものが何かを知っている者は誰もいない。船長に求められるのは、船員をまとめあげる統率力であり、どんな困難にも対処できるように、船員の錬度を高めておくことだった。
スペイン語では、サッカーの監督は基本的に“エントレナドール(練習させる人)”と表現され、また、20世紀の半ばまで、いざ試合が始まってしまえば監督にできることはほぼなにもないよう、ルールで縛られてもいた。港を出航した時点で、監督の仕事はほぼ終わっていたのである。
だが、テクノロジーの進化と膨大なデータの蓄積により、21世紀の船長は航路の特徴はもちろん、先々の天候まで正確に予測できるようになった。となれば、やること、やれること、やらなければならないことも変わってくる。処理すべき情報の量が飛躍的に増えたことで、「こうなったらこうする」的なマニュアルも必要になってきた。
20世紀のベッケンバウアーと21世紀のクリンスマンの評価差
まったく同じことが、サッカーの世界でも起きている。
韓国代表の新監督となったユルゲン・クリンスマンは、1990年のイタリア・ワールドカップでチームを世界一に導き、自らもスーパースターとなったドイツの伝説的存在として知られている。当時のドイツ人選手としては珍しく、英語、イタリア語に堪能で、若い頃にはオフを利用して北米大陸をレンタカーで借りたフォルクスワーゲン・ゴルフで回った、という逸話もある。一言で言えば、サッカー界で異彩を放つ男だった。
ところが、そんな男が韓国代表の監督候補として名前が挙がった際、韓国のネット上ではその能力を疑問視する反応が飛び交った。ドイツ・サッカーにも詳しい木崎によれば、実は母国でも、クリンスマンにはそうした声がつきまとっていたという。
「優勝こそ逃したものの、地元開催のワールドカップで3位にはなった。当時のドイツ・サッカーの実情を考えれば、悪い成績じゃない。それが評価されて、その後、2008年に名門バイエルン・ミュンヘンの監督になったんですが、国内リーグもチャンピオンズ・リーグも散々な成績に終わった。あれで、ワールドカップの好成績はクリンスマンの手柄じゃない、右腕として支えたレーヴの力が大きかったんだ、という見方が広がりました」
ドイツ・サッカーの伝説中の伝説、フランツ・ベッケンバウアーは監督経験どころかライセンスすら持たないまま西ドイツ代表の監督に就任した。監督として2度出場したワールドカップでは、どちらも決勝進出を果たすという素晴らしい成績を残している。
ただ、そのサッカーはといえば、よく言えばオーソドックス、悪く言えばさしたる特徴のない退屈なもので、監督の個性を感じさせる独自の戦術のようなものはほとんどなかった。それでも、ベッケンバウアーの能力に疑念をはさむような報道や反応は、少なくとも日本にはまったく伝わってこなかった。
現役時代に『皇帝』と呼ばれた男には、大航海時代の船長に求められるものすべてが揃っていたから、なのかもしれない。
ベッケンバウアーほどではないもの、クリンスマンもまた、カリスマだった。彼には大局観があり、苦境に動じない強さも持ち合わせていた。だが、それだけではやっていけない時代に、サッカー界は突入していた。
クリンスマンは、時に「無能」とまで指弾された。森保一が浴び続けたのと同じ種類の罵声だった。
※続く(6月15日10時公開)
金子達仁/Tatsuhito Kaneko
1966年神奈川県生まれ。スポーツライター。ノンフィクション作家。1997年、「Number」掲載の「叫び」「断層」でミズノ・スポーツライター賞を受賞。著書『28年目のハーフタイム』(文春文庫)、『決戦前夜』(新潮文庫)、『惨敗―二〇〇二年への序曲―』(幻冬舎文庫)、『泣き虫』(幻冬舎)、『ラスト・ワン』(日本実業出版社)、『プライド』(幻冬舎)他。