アポの時間に遅れるのは日常茶飯事、段取りが苦手で物事の計画は立てない、嫌なことは後回し、ルールは破るのが当たり前……。しかし、最後にはなぜかうまくいく。日本人とは真逆の国民性を持っているからこそ、そこには学ぶべきことがたくさんあるはずだ! 実に30年以上にわたってイタリアと関わり、イタリア人に数えきれないほど痛い目に遭わされてきた著者・宮嶋勲氏が語る、イタリア人の生き方の神髄とは? 『最後はなぜかうまくいくイタリア人』(日経ビジネス人文庫)の一部を引用、再編集してお届けする。全4回。
分業が苦手。だからこそ職人技が磨かれる
イタリアの仕事能率が低い要因に、分業の概念の欠如が挙げられる。しかし、それは同時にイタリアの活力や想像力の源でもあるので、話はややこしい。
作業の効率を高めるには、分業をしたほうがいい。それは何も大工場の生産ラインに限らず、小さなパーティーの開催でも同じである。「私はワインをそろえますから、あなたは料理を用意してください。招待客への連絡と受付はA君にお願いしましょう」といった具合である。ひとつのことに集中すれば能率が高まるし、それぞれの役割と責任が明確になることにより、過ちも減る。
ところがイタリア人はこの分業がどうも苦手なようだ。
また、分業が進むと作業の全体像が見えなくなることも、イタリア人の労働意欲を下げる。いま自分が行なっている作業が、全体にとってどのような意味があるのかが見えないと、意欲がわかないのである。
「全体の設計図は上の人が考えているから、あなたは与えられた仕事をちゃんと遂行することだけを考えなさい」と言われて納得できる気質ではない。だから当然イタリアは、大工場で規格化・標準化された製品を大量に生産することは苦手である。フィアットがヨーロッパを代表する自動車メーカーになれない原因だ。
一方、全体像が見えて、自分がすべての工程に関われる仕事には、驚くべき集中力を発揮する。イタリアが誇る職人芸の世界がそうである。
職人は基本的に分業しない。靴をつくるにしても、ひとりの職人が最初から最後まで仕上げて、それに責任を持つのである。だから10人の職人がいる工房で靴をつくると、どの職人にあたるかによって、10種類の微妙に異なる靴ができるだろう。均一化されていない、豊かな差異に満ちた世界こそが、イタリアが最も得意とするジャンルである。
均一化され標準化された安心感のある車ではフォルクスワーゲンに敵わないイタリアだが、1台1台のマシンを職人が仕上げ、それぞれが微妙に異なることが魅力のフェラーリでは、他を寄せ付けない名声を確立している。
イタリアで仕事をしていると、各人の職務が不明瞭で、全員が「なんでも屋さん」のような働き方をしている企業が多い。私が専門であるワインの世界で言えば、醸造責任者なのに英語がうまいから海外に頻繁に行って輸出部長のような仕事をしている人とか、栽培担当なのに機転が効いてチャーミングなのでレストランを手伝っているというような人たちだ。
その時々に人手が必要とされている分野に可能な人材をまわして、なんとかその場を凌ぐという、典型的なイタリア流のやり方なのだろうが、本職以外の分野を任されている等の本人たちも、それほど嫌ではなさそうだ。「私は栽培で労働契約を結んでいるので、それ以外の仕事は断ります」といったような杓子定規なことを言う人は少ない。好奇心旺盛で、いろいろやってみるのが好きなのである。
考えてみれば、イタリアには昔から「なんでも屋さん」が多かった。レオナルド・ダ・ヴィンチは画家といった狭い定義に収まらず、科学者であり、治水、軍事まで担当する万能の天才であったし、ロッシーニの「セビリアの理髪師」のフィガロはまさに、「私は町のなんでも屋」なのである。
産業革命以降の資本主義下で急速に発展した分業よりも、中世的職人的労働のほうがイタリア人の気質に合っているのかもしれない。