日本の歴史において、誰もが知る織田信長。歴史に名を残す戦国武将のなかでも、信長は極めて特異な人物だった。交渉力、絶体絶命のピンチを乗り越えるアイデア力、咄嗟の判断力……。信長の奇想天外で機転の効いた行動は、日々無理難題を強いられるビジネスパーソンのヒントになるだろう。今回は、信長が戦の最前線で示し続けたリーダーシップについてのエピソードを紹介! 作家・石川拓治さんによるゲーテの人気コラム「信長見聞録」を朗読という形で再発信する。
戦の最前線で刀を振り続けた織田信長
信長は数え42歳の年に、息子信忠に家督を譲っている。天正三年(1575年)のことだ。何事においても徹底する信長は、家督だけでなく尾張も美濃も、岐阜城さえも譲り、茶道具だけをたずさえ筆頭家老佐久間信盛の私邸に移った、と『信長公記』には記されている。
我々の感覚からすれば早すぎる気もするが、当時はそれが普通だった。戦場を馳駆するのが彼らの仕事なわけで、走れなくなったら引退なのだ。だから戦国武将の隠居の年齢は、だいたい現代アスリートの現役引退の年齢と一致している。
ちなみにこの時、信忠は19歳だった。偶然かそれとも意図的なのかはわからないけれど、信長が父・信秀から家督を継いだのと同じ年齢だった。信盛屋敷に移った信長は、翌年安土築城を開始する。破壊の次は創造だ。第二の人生は、天下人としての人生だった。
もっとも、引退で信長の本質が変わったわけではない。敵対する勢力はまだ国内から一掃されてはいなかった。しばらく戦が続くのは間違いないし、家督を譲ったばかりの信忠にその戦のすべてを任せることなどできる相談ではなかった。
翌天正四年五月三日、信長に敵対する大坂本願寺の大軍が織田方の佐久間信栄や明智光秀の立て籠もる天王寺の砦を包囲する。翌日その報せを京都で聞いた信長は、即座に配下の諸将に出陣の命令を下す。そして自らも大坂へ向かう(信忠は安土にいて対応できなかった)。この時、信長は湯帷子(ゆかたびら)姿で、百騎の供を従えただけだったという。
湯帷子は今日の浴衣、大うつけと呼ばれた頃の若き信長が好んで身につけた衣装だ。斎藤道三との会見場への道中、背中に巨大な男根を描いた湯帷子を着ていたという話は前に書いたけれど、そんな格好で、しかもわずか百騎を率いて、取るものも取りあえず信長は戦場に向かった。それほど事は急を要した。
身軽な信長は五日に着陣したが、出陣の触れがあまりにも急だったため、雑兵や人足がなかなか集まらなかった。軍勢が揃うのを待っていたら、天王寺の味方は攻め殺されてしまう。天王寺の砦は俄(にわか)作りで、城壁も堀も貧弱なため、古畳や殺した牛馬を盾にして敵の矢弾(やだま)を防ぐという有様だったらしい。
そこで信長は決断する。かろうじて集めた三千人ばかりの軍勢を率いて、天王寺を囲む一万五千の敵を攻めたのだ。
音声で聞く! 5分で学べる歴史朗読
Takuji Ishikawa
文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。