日本の歴史において、誰もが知る織田信長。歴史に名を残す戦国武将のなかでも、信長は極めて特異な人物だった。交渉力、絶体絶命のピンチを乗り越えるアイデア力、咄嗟の判断力……。信長の奇想天外で機転の効いた行動は、日々無理難題を強いられるビジネスパーソンのヒントになるだろう。今回は、「山中の猿」と呼ばれていた山の中に暮らす乞食と、信長の間に起こったエピソードを紹介! 作家・石川拓治さんによるゲーテの人気コラム「信長見聞録」を朗読という形で再発信する。
信長が注力していた庶民の生活への配慮
信長は最後まで京都に居を構えなかった。関白二条晴良の屋敷跡に新邸を築かせたことはあるが、完成すると間もなく東宮に献上している。足利義昭を追放し事実上の天下人となっても、領国と都の間を頻繁に行き来するのが信長の日常だった。
そういうある日。安土で築城が始まる前年、天正三年六月二十六日のことだ。急遽上洛することが決まり、慌ただしく岐阜城を出立した信長は、美濃と近江の国境付近にあった山中という集落で馬を降りて、側近に土地の人々を集めるよう命じる。
村人たちは肝を潰したに違いない。山中は信長が都へと上り下りする道沿いの集落だ。信長が大軍を率いて行くのも、あるいは数名の護衛だけを供に駆け抜けて行くのも見慣れていたはずだが、こんなことは初めてだった。しかも申しつける事があるから、男も女も全員集まれというのだ。何を言われるのかと恐る恐る集まった村人に、信長は木綿二十反を渡すと、意外な頼みごとをする。
その集落には「山中の猿」と呼ばれる身体に障害のある男がいて、いつも道端の同じ場所で雨露に打たれながら乞食をしていた。好奇心の強い信長は以前からその様子を不審に思い、憶えていたのだ。
乞食というものは住所不定で流離うものなのに、この男はいつもここにいる。何か子細があるに違いない。信長はそう言って、事情を聞いた。先祖の犯した罪でこの男もその父も代々このような姿に生まれつき、ここで乞食をしている、というのが土地の者の説明だった。
二十反の木綿はこの「山中の猿」に与えるため、信長が岐阜城から運ばせたものだった。
「此の半分を以って、隣家に小屋をさし、餓死せざるように情を掛けて置き候へ」
木綿十反の費用で、このあたりに小屋を建て、餓死せぬように情けをかけてやってほしいというわけだ。さらに、近隣の者は毎年の麦と米の収穫後、負担にならぬ程度にこの男にも収穫を分けてくれれば、信長は嬉しいと言葉を続ける。
音声で聞く! 5分で学べる歴史朗読
Takuji Ishikawa
文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。