織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。
信長のコトバ:「此の半分を以って、隣家に小屋をさし、餓死せざるように情を掛けて置き候へ」
信長は最後まで京都に居を構えなかった。関白二条晴良の屋敷跡に新邸を築かせたことはあるが、完成すると間もなく東宮に献上している。足利義昭を追放し事実上の天下人となっても、領国と都の間を頻繁に行き来するのが信長の日常だった。
そういうある日。安土で築城が始まる前年、天正三年六月二十六日のことだ。急遽上洛することが決まり、慌ただしく岐阜城を出立した信長は、美濃と近江の国境付近にあった山中という集落で馬を降りて、側近に土地の人々を集めるよう命じる。
村人たちは肝を潰したに違いない。山中は信長が都へと上り下りする道沿いの集落だ。信長が大軍を率いて行くのも、あるいは数名の護衛だけを供に駆け抜けて行くのも見慣れていたはずだが、こんなことは初めてだった。しかも申しつける事があるから、男も女も全員集まれというのだ。何を言われるのかと恐る恐る集まった村人に、信長は木綿二十反を渡すと、意外な頼みごとをする。
その集落には「山中の猿」と呼ばれる身体に障害のある男がいて、いつも道端の同じ場所で雨露に打たれながら乞食をしていた。好奇心の強い信長は以前からその様子を不審に思い、憶えていたのだ。
乞食というものは住所不定で流離うものなのに、この男はいつもここにいる。何か子細があるに違いない。信長はそう言って、事情を聞いた。先祖の犯した罪でこの男もその父も代々このような姿に生まれつき、ここで乞食をしている、というのが土地の者の説明だった。
二十反の木綿はこの「山中の猿」に与えるため、信長が岐阜城から運ばせたものだった。
「此の半分を以って、隣家に小屋をさし、餓死せざるように情を掛けて置き候へ」※
木綿十反の費用で、このあたりに小屋を建て、餓死せぬように情けをかけてやってほしいというわけだ。さらに、近隣の者は毎年の麦と米の収穫後、負担にならぬ程度にこの男にも収穫を分けてくれれば、信長は嬉しいと言葉を続ける。
「山中の猿」だけでなく、村の男女から、信長の家来衆にいたるまで、涙で袖を濡らさぬ者はなかったと『信長公記』は記している。家来たちもそれぞれ、幾何かの銭をこの男のために置いていったという。
信長の人間味を物語る逸話ではあるけれど、信長が情け深い人物であったと言いたくて取り上げたわけではない。天正三年六月は、信長と家康の連合軍が武田勝頼の軍勢を撃退したあの長篠の戦いの翌月だ。信長の天下取りに春の兆しが見え始めていた。ちなみに、この時信長が急遽上洛を決めたのは、東宮の蹴鞠の会を観るためだった。
戦争はまだ続いていたが、信長の視線の先には次の時代が見え始めていたに違いない。同じ天正三年、信長は領国内の道路の整備を進めさせている。入り江や川に橋をかけ、急勾配の道はゆるやかにし、岩を削り道幅を広くした。その道は三間半幅とし、両脇に松や柳を植えた。これに先だって領国中の関所を撤廃させたので、人の行き来も物資の輸送も楽になり、庶民の生活は安定したという。
信長は破壊したが、破壊のための破壊ではなく、それは何かを創りだすためだった。彼はいったいどんな世の中を作ろうとしていたのか。残念ながら本能寺の変で未完に終わったけれど、信長の視野にはたとえば「山中の猿」のような人々も入っていたことは憶えておきたい。路傍に蹲る人に注ぐ眼差しを、彼は確かに持っていた。
※『信長公記』(新人物往来社刊/太田牛一著、桑田忠親校注)177ページより引用
Takuji Ishikawa
文筆家。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など。「物心ついた頃からずっと、信長のことを考えて生きてきた。いつか彼について書きたいと考えてから、二十年が過ぎた。異様なくらい信長に惹かれるその理由が、最近ようやくわかるようになった気がする」