歯という、最も控えめで雄弁な投資。今、歯科治療は“修復”から“投資”への意識転換の岐路に立っている。人生100年時代の資産である“歯(し)産”を築くために、エグゼクティブの多くは歯学博士・中原悦夫氏のもとへ通うという──。【特集 歯こそ最強のビジネス戦略】

日本歯科大学付属病院 副院長 日本歯科大学・デュボワ 特任教授。歯学博士。1989年審美歯科及び予防歯科の専門クリニック「協立歯科」を設立。1992年にはアメリカ美容歯科学会(AACD)より日本人で初の認定医を取得する。www.dubois.jp
人生100年時代。50歳から歯を治し始めてもメリットはたっぷり享受できる
「エグゼクティブの歯への意識が明らかに変わりはじめています」
アメリカで学び、世界の歯科医療に精通する歯学博士・中原悦夫氏は言う。
「かつては60歳まで生きる前提で治療してきた。今は100年生きるために土台をしっかり作っておきたい」
「歯は全部が見えるわけではなく、見え隠れするもの。それをどう捉えるかに価値観が現れる」
これは中原氏がある外国の経営者から言われた言葉だ。いくらハイブランドの服を優雅に着こなす人でも、ロッカールームでは下着をないがしろにしている──見えないところで、日本人は手を抜きがちなのだと。
「お洒落をして外側を着飾っても、見え隠れするところに投資する習慣がなかなかない。歯もそれに近いのではないでしょうか」と中原氏は指摘する。
ところで、歯の生涯価値は金額換算するとどのくらいなのだろうか。100万円か、1000万円か、1億円か。そんな質問を中原氏はすべての歯を治し終えた女性経営者にぶつけてみた。返ってきたのは「1億円では済まないわよ」という答え。同じ予算でも、スーツや時計が外側を飾るのに対し、歯への投資は全身の健康と寿命そのものに効く。リターンの質がそもそも違うのだ。
歯周病は命に関わる疾患の引き金になる可能性も
歯周病は糖尿病とも関わりがあるというのはよく知られているが、今は肥満や認知症への関係も指摘されている。加えて心筋梗塞や動脈硬化といった命に関わる心血管疾患を引き起こすこともわかってきている。最近の研究では、歯周病が関係する身体の病気の数は100以上という話もある。歯への投資は、そのまま健康への投資でもあるのだ。
ゆえに、いかに日々のケア、予防が大切か。中原氏はこれを「サブスクリプション」に例える。メンテナンス費を1本1ヵ月1000円と仮定すれば、28本で年間およそ35万円弱、10年で約350万円弱。「インプラント1本が何百万円だったら、どちらに価値があるか」。しかもこれは単なる計算にとどまらない。ケアを欠かさず、予防を徹底する。歯を失った多くの理由である歯周病を解決しなければ、将来、病気になる可能性が高くなる。
そもそも予防とは「突き詰めればふたつのコントロールに集約される」と中原氏。細菌のコントロールと、力のコントロールだ。後者はストレスの多いエグゼクティブに特有の問題でもある。食いしばりや歯ぎしりは、ストレスの発散として甘いものの過剰摂取、あるいは夜遅い食事の習慣として起こり、睡眠中にも歯を、そして良質な眠りそのものを削っていく。それは仕事におけるパフォーマンスにつながる。
多くの人が治療をして、歯を白くきれいに並べることを目指すが、それは機能として、きちんと噛みしめることができるかとは別。顎関節が正しくはまるよう設計すれば、歯は100歳まで持つという。ちなみに、神経を抜いた歯は10年ほどで割れ、人工の歯と連鎖する。だからこそ、削らず神経を残す予防が効いてくる。
痛い、面倒、そして忙しい。
歯への投資を後回しにする理由は共通している。ある経営者は多忙で通院が滞るうちに噛み合わせがどんどん悪くなり、本来2週間で済むメンテナンスに半年を要し、ついには腰にまで痛みが出るようになっていたそう。放置の代償は、後回しにするほど、それは治療費として、そして全身の健康として跳ね返ってくるのだ。
予防のための第一歩は、毎食後のひと磨きと口の中のひとすすぎ
では、細菌のコントロールを、今日からどう始めるか。中原氏の答えは単純明快だ。
「食事はもちろん、お菓子を食べたり、コーヒーを飲んだら、すぐに口をすすぐ」
要は虫歯菌の栄養源そのものを断つ“兵糧攻め”だ。水でうがいするだけでも、お茶をひと口飲むだけでもいい。目安は「口の中から食べたものの味が消えたかどうか」。もちろんサッと歯磨きすればなおよいが、それも15〜20秒の簡易的なもので構わない。加えて出血している箇所があるなら、それはすぐに治療する。歯周病菌の格好の餌場になるからだ。栄養源を断ち、餌場をなくす。この日々の“兵糧攻め”が将来、大いに効くという。
こうして口内の㏗を中性近くに保てば、歯は常にコーティングされ、再石灰化も起こりやすくなる。会議や会食が続いて何もできなかった日は、夜だけしっかり磨いて寝る。朝はその磨き残しを落とし直す。歯ブラシだけでは汚れの5〜6割しか取れないため、歯間ブラシやフロスを追加する。レストランの化粧室にマウスウォッシュが、ゴルフ場に歯ブラシが置かれていることがあるが、あれは大いに利用すべきだ。やり始めると、やらないと気持ち悪くなる。そこまでいけば、もう指導はいらない。
最後に歯医者選びについてアドバイスをもらった。
「いかに先生と価値観を共有できるか、それに尽きます。AIがなんでも答えに導いてくれる時代になりつつありますが、あるコンサルタントがAIに『できないことは何か』と尋ねたところ、答えは『決断』だったそうです。決断とは感性。これからの時代には、感性がより重要になります」
かつては医師がすべてを決めた。現在は患者自身の意思決定が最優先される時代だ。技術も発達し、治療の選択肢がいくつも並ぶ時代にこそ、最後に問われるのは、「この先生の直感と価値観に委ねよう」と思えるかどうかなのだ。
日本には手厚い保険制度があり、痛くなったら治せばいいという発想が根づいてしまった。コンビニの数より多いと言われる歯医者の数の存在、その指導によって、日頃から歯をケアする習慣も定着してきた。予防を家庭教育としてきた欧米に、今、日本もようやく追いつきつつある。この習慣は歯周病にも虫歯にも効き、さまざまな病気の予防につながる。そして、始めるのに遅すぎることはない。「50歳を過ぎたらもう手遅れかと思っていた」という声に、中原氏はこう応じる。
「人生100年時代ですから、まだあと50年あります。今すぐに切り替えることが大切です」
歯は健康への意識、生活習慣を物語る人生の履歴書だ。生まれ持った歯をきちんと美しいままに。その当たり前を保つことこそが、最も賢い投資だ。会食の場を出る前に、化粧室で口をすすぐ。その小さな習慣の積み重ねが、無言の履歴書を、静かに、確かに書き換えていく。
この記事はGOETHE 2026年9月号「総力特集:歯こそ最強のビジネス戦略」に掲載。▶︎▶︎ 購入はこちら

