16歳で歌手デビュー、1990年代後半に自らデザインしたファッションで一大ムーブメントを巻き起こした篠原ともえさん。現在はデザイナーとして活躍し、広告賞「ニューヨークADC賞」で入賞を果たすなど、国際的にも注目されている。時代を席巻した社会現象から現在まで、歌手からデザイナーというパラレルキャリアはどう形成されていったのか。インタビュー第1回は、デザインを学びながらも芸能界で大ブレイクした、超多忙な10代、20代を語る。

自分が心から好きなものが誰かの人生も彩る
手作りのアクセサリーを重ねづけ、いろとりどりのカラフルな衣装スタイリングに、個性的なヘアアレンジ。常に明るく、見る人を笑顔にさせるパワフルなキャラクター。1990年代後半、篠原ともえの登場は、エポックメイキングだった。
巷には、このカラフルでデコラティブなファッションを真似たティーンが続出。街を歩けば、その明るく溌剌としたパーソナリティに影響を受けたファッショニスタたちにぶつかり、カラオケでも喫茶店でもあらゆる場所から篠原さんが歌う、エレクトロニックな楽曲が聞こえてくる。まさに一世風靡の存在だった。
「90年代のファッションスタイルは自らデザインした私の夢の集まりだったのです」
そう当時を思い出す篠原さん。若い女性たちの憧れだったそのアイデアに満ちたファッションは、16歳だった篠原さん自身が発案したもの。自分で着てみたい服のデザイン画を描き、時には実際につくって現場に持っていき提案。それがだんだんと定着していったのだという。
「その頃の私は、歌手活動と並行してデザイン専攻の高校であらゆる創作のプロセスを学んでいました。そこで自分がつくったものをプレゼンしていくことの重要性やその方法も学び始めていて、エンタメの世界でそれを実践することができたんです。
“手仕事やファッションが好き”ということが根幹にあったので、学校でいち生徒として学んだことを活かして自分でつくったものを発信していく、デザインの創作やアイデアを届けるステージとして、芸能界を夢中で楽しませてもらっていました」
自分でつくった衣装、アクセサリーを撮影現場に持っていったり、時にはギフトにして渡すと現場は大いに盛り上がる。明るいパーソナリティーともリンクしたセルフスタイリングが完成していった。
「メディアそしてエンタメにはファッションが必ず連動します。歌手というジャンルでデビューしたこともあり、テレビや雑誌、CM出演だけでなく、ライブのステージ衣装の創作を通して、クリエイティヴな世界に飛び込めることも大きな喜びでした」
歌手としての巡り合わせもとてもセンセーショナルだ。エッジの効いた音楽を現在も届け続けている、電気グルーヴの石野卓球さんがこれまでにないインパクトのあるテクノポップを提供。キャッチーかつユーモアを交えた「ウルトラリラックス」「クルクルミラクル」などといった楽曲をインスピレーションに篠原さんが衣装のイメージを作っていき、創作は循環していく。
「多感な年齢でしたし、とてもピュアな気持ちで仕事と向き合っていました。10代だからこその純粋な“想い”そして“熱量”が伝わり、自由で楽しい!と感じる方々が心のままに反応してくださったのだと思います」

1979年東京都生まれ。16歳で歌手デビュー。シンガーソングライター、女優、ナレーターなど多岐にわたるメディアでの活動後、デザイナーとして松任谷由実、嵐などのアーティスト衣装デザインを担当。2020年アートディレクターの池澤樹氏とともにクリエイティヴオフィスSTUDEO(ストゥディオ)を設立。ディレクションを担当したエゾ鹿革の着物が世界的広告賞「ニューヨークADC賞」でシルバーとブロンズキューブの2冠を達成。2025年6月14日から大阪歴史博物館、9月20日から上野の森美術館で開催の「正倉院 THE SHOW -感じる。いま、ここにある奇跡-」では宝物とファッションをテーマに新作を発表する。
篠原さんのファンの多くは中高生だった。同年代の篠原さんが本当に好きなものを見せてくれる、その自由なアイデアに刺激を受け自分でもアクションしてみる、そういった感覚だったのだろう。そのアイコニックなスタイルは”シノラーファッション”と呼ばれ、ビーズやチェーリングのアクセサリーを着飾り思い思いのファッションを楽しみ、友達同士で交換したり、時には親子で一緒につくったり−―。そんなコミュニケーションも存在していた。このムーブメントは戦略的ではないからこそ世代を超えて浸透していったのだろう。
「当時いただいたファンレターには手を動かし、創作に目覚めた方々からの感謝のメッセージやアイテムもたくさん届きました。なかには『親子で一緒につくりました』というアクセサリーが同封されていて『子供たちと大切な時間を過ごせました』と書いてあったり。自身の活動を通じて、誰かに喜びや新しい体験を届けることができる仕事なのだと気づかせてもらえました。
また『篠原さんの真似をしてカラフルな服を着て明るくしていたら、いじめから解放されました』という手紙はとても印象的でした。 私が好きで夢中でやっていることは、誰かの心を彩ることができる。自分自身の中にもそう答えが出せたんですよね。あれから30年たった今でも温かな声は、仕事での出会いやSNSを通じて届けていただくことがある。ファッションを通じ、誰かと繋がることの大切さを学ぶことができた10代の体験は特別なものでした」
デザインを学ぶ学生と芸能活動の両立
高校から専門性のある学校を選んでいた篠原さん。自分の進む道を早い段階で見つけることができたのは、なぜだったのだろうか。
「着物の針子であった祖母と、洋裁を嗜んでいた母の影響が大きいです。なにかをゼロから自分の手でつくり出すことって魔法のようだなって幼いころから感じていました。またバレエを習っていたことも影響しています。華やかな衣装をステージの側で本番ぎりぎりまで仕立てている衣装さんの懸命な姿も目に焼き付いている。そういう環境でしたから、小学校高学年くらいから見よう見まねでお裁縫を覚えミシンも使えるようになっていました。
そして、幼少期から絵を描くのが好きだったことも関係があると思います。テスト用紙の藁半紙に自分の着たい服のスケッチを、歌手デビューする前から描いていました。手を動かしてつくることとデザインすること、早い段階から両方好きでしたね。 絵はほとんどがファッション画です。服が好きなことから高校は家政科に行こうと思っていたのですが、中学の先生に『篠原はデザイン学校の方が絶対いい』と薦められて。繊維業が盛んだった八王子に、テキスタイルや染色に特化した工業高校があって、そこに応用デザイン科があるというので、進学することにしたんです」

その高校ではファッションだけではなく、写真や建築など幅広くデザインを学んだという。大学は文化女子短期大学(現・文化学園大学)に進学。服装学科ファッションクリエイティブコースデザインを専攻した。
すさまじいのは、高校、大学と、すべて芸能活動と並行して通っていたということだ。単に卒業資格をとるためではない、高校も大学も学びたいという強い意志があっての進学だ。人気歌番組にレギュラーコーナーを持ち、テレビ、ラジオ、雑誌などあらゆるメディアに出演。レコーディングやライブなど多忙を極める芸能活動をしかも積極的に続けながら、自身のための学びも追求していたのだ。
「今思うと我ながらすごいエネルギーでした。毎日実家から1時間ほどかけ電車で高校へ行き、そこから放課後にはテレビやCMの撮影へ。課題も多く、美大さながら鉛筆デッサン・アクリルガッシュでの平面構成図・プロダクトのモックアップなどもあった。大学では500枚近いドローイングの提出やファッションデザイン画の他に製図パターンや縫製アイテムももちろんありました。
作業は大変なのですが、好きなことなので手を抜きたくなかった。課題も大事な表現の場と捉えてひとつひとつに向き合っていたんです。メディアの仕事でいろいろなプロフェッショナルの方にお会いしたり、綺麗なセットや衣装を見たりして、そこからインスピレーションを受けてアイデアが枯渇することはありませんでした。デザインの世界も芸能活動も、私にとっては同じ世界線で、自分らしさを解き放つ、まさに夢のような世界。その時代を乗り越えられた自信は、今の仕事にもつながっていますね」
”自分で選んだ好きなこと”が、多忙な芸能活動を続ける活力にもなっていた。
「表に出る仕事と、大好きな手を動かすことの両方を自分に課していたからこそ、バランスが取れていたのでしょうね。大学への進学は両親から『いろんな社会へ出る準備をしておくと将来自分の自信にきっとつながるはず』と背中を押されました。だから私もファッションの大学には絶対に行きたかった。どんなに忙しくても2つの道を両方選ぶことが私にとって自然でした」
歌手からデザイナーへの転身。篠原ともえさんの活動はそう語られることが多い。けれど実は、ものづくりへの強い想いこそずっと根本からあった。それが時代ごとに形を変えて現れていたのかもしれない。そしてその強い信念を持つことこそ、パラレルキャリアを切り開く大きな要素なのだろう。
インタビュー第2回(5月1日公開)では、デザイナーとしてのキャリアを極めるための大きな決断を語る。