PERSON

2024.09.23

元ディスコDJの中卒社長は、いかにWeb制作の風雲児となったのか?

トヨタ自動車、資生堂、ソニー、アサヒビール、エイベックスなどの大企業のWeb制作を一手に引き受けて来た実績を持つWeb制作会社、ベースメントファクトリープロダクション。コロナ禍でも新規事業を伸ばし、現在は自らの肝煎りで開発したタッチ名刺「MEET」が絶好調だ。その代表取締役の北村健氏は、中卒でディスコDJをつとめたのちの創業という変わったキャリアの持ち主。やんちゃだったという半生と、だからこそ勝ち取ることのできたビジネスの数々を語る。第1回は、1980年後半〜1990年代のディスコブームのなかでDJとして暮らした日々について。

ベースメントファクトリープロダクション 北村健氏

このまま街に放り出されたら、荒くれ者になってしまう

東京の世田谷区弦巻。閑静な住宅街の中に突如、その黒いビルは現れる。駐車場にはカスタムされたレクサス、メルセデス・ベンツGクラスが並び、入り口を入れば巨大なスクリーンと、体温を測る最新鋭のサーマルカメラに出迎えられる。

ここは1997年に創業されたベースメントファクトリープロダクションの自社ビル。トヨタ自動車、資生堂、ソニー、アサヒビール、エイベックスなどナショナルブランド企業の公式サイトやキャンペーンサイトの制作を手掛けるほか、自らの肝煎りサービスとして、日本生命、明治安田生命、花王などの名だたる企業にも導入されているタッチ名刺「MEET」をはじめ、顧客の業態にカスタマイズしたシステム開発・販売を行う老舗のデジタルマーケティング&システム会社だ。

「とはいえ、創業時は音楽制作会社だったんです。もともとはディスコのDJだったんですよ」

そう話すのは創業者であり、代表取締役の北村健氏。その言葉通り、社内の壁にはレコードがずらりと並び、オフィスには音楽制作スタジオまで完備。さらにビリヤード台やバー・スペース、ドライブシミュレーターなど、北村氏の好きなものがつめこまれた職場になっている。

なぜディスコDJが日本の大企業を支えるWeb制作やシステム開発を行う会社を経営するまでにいたったのか。学生時代からそのビジネス人生を教えてほしいと伝えると、北村氏は笑ってこう答えた。

「学校、出てないんですよ。高校でやんちゃしちゃって(笑)、最終学歴は中卒です。そのまま家を出て働くことも考えたのですが、ぼくの住んでいた街は大阪西成。当時は反社会的な人たちも目立つ世相で(笑)、それなりに治安が悪く、このままひとりこの街に放り出されたら荒くれ者になってしまうのではと、その状況は回避できればということで、父親の勧めでまずは中国へ行きました」

そう、北村氏は生い立ちを語り始めた。

ベースメントファクトリープロダクション 北村健氏
北村健/Ken Kitamura
1970年大阪府生まれ。ディスコDJ、音楽プロデューサーを経て’97年にベースメントファクトリープロダクションを創業。トヨタ自動車、資生堂、ソニー、アサヒビール、エイベックスなどの大企業のWeb制作を一手に引き受けてきた実績を持つ。タッチ名刺「MEET」や、販売店・代理店向けDX支援ツール「decot(デコット)」など、自社サービス開発や販売も行う。

“大阪もん”が乗り込み、福岡のディスコシーンに新風

1987年、北村氏が17歳の頃、父親が貿易関連の仕事をしていた関係で、工場がある中国の天津へ。音楽を聴くことと作ることが趣味で、専門的な音楽機材を日本から持ち込んでいたため、中国語を学ぶ側ら音楽のリミックス作業に専念しカセットテープに録り貯めるという毎日を過ごしたのだという。当時デジタル機器など当然ないため、カセットMTR(※カセットテープのマルチトラックレコーダー)で音をミックスして作っていく、今でいうアナログDJの手法だ。

「中国では語学を除けば音楽漬けの生活だったのですが、1989年に天安門事件がおきて、急遽帰国することに。事件の影響で北京から日本行きの飛行機が飛ばず、香港まで行ってそこから帰りました。自分は中国で自由に過ごしていましたけれど、その国でこういうことが起きるなんてと、なんだか複雑な気持ちにはなりましたね」

その後、日本で通関業社に内定。入社までの数ヶ月を自由に過ごそうと、音楽関係のバイトを探し始める。

「最初は大阪のディスコのホールでドリンクを作ったりして働いていました。周りに『DJがやりたいんだ』と言い続けているうちにそのお店のDJの方が声をかけてくれて、やらせてもらえるように。当時のDJは選曲がメインの仕事で、ぼくのようにリミックスや楽曲制作ができることは珍しかったのでしょう。見習いDJ期間は数年と言われていた時代に、ぼくは半年後にはメインタイムでプレイすることができました。その後、内定先の会社に就職しましたが、上司と喧嘩をしてあっという間にクビになりまして(笑)。そのタイミングで福岡の博多マハラジャというディスコから声をかけて頂き、福岡県に移住したんです」

1980年代のディスコブームを牽引した「マハラジャ」の福岡店でDJとして曲をかけ始めた北村氏。当時、福岡のディスコシーンといえば、親不孝通りにあった5階吹き抜け、日本最大級のディスコだった「マリアクラブ」と、この「博多マハラジャ」が2大巨頭。集客ではマリアクラブに及ばなかった博多マハラジャだったが、北村氏には秘策があったようだ。

「その頃、DJたちがレコードを買うのは、主に地元のレコード店。レコード店主と密に付き合うことで、海外から直輸入したレコードをDJが購入できる時代でした。だからDJにとっては、レコードショップの誰と繋がっているかということはすごく大事なこと。店がどのDJにどのレコードを出すかっていうのは、店主の気まぐれみたいなもので、レコード自体も直輸入でしたから枚数も少なく希少だったんです。

一方のぼくは、福岡に行っても大阪のレコード業界と付き合いを続けていました。 だから、ぼくがかけるレコードは、大阪のレコード店が仕入れたもの。福岡のDJは誰も持っていない音源をかけることができたんです」

ディスコがクラブに変わっていき、テクノミュージックが流行り始める頃、すでにテクノのレコードを多く持ち、それをさらにリミックスしてかけていた北村氏はいわば最先端。当時ユーロビートが主体だったディスコシーンにおいて、テクノミュージックをメインに持ってくる作戦は大当たり。マリアクラブからの客が博多マハラジャに流れ出し、北村氏は福岡でDJとして信頼を獲得し地位を確立していく。

「最初は“大阪もん”が福岡でなにができる、みたいな雰囲気がありましたし、つっかかってくる人も多くいました。だけど、とにかく自分のやるべきことをやって、可愛がってくれる人にはとことん懐く。そうやって地道に人付き合いを重ねていったんですよね」

ベースメントファクトリープロダクション
今は楽曲制作はあまりやらないと笑う北村氏だが、オフィスには広々とした音楽制作スタジオと、膨大な量のレコードがあり、そのルーツを感じることができる。

スタジオに寝泊まりする丁稚奉公時代

しかし1990年代初頭、バブルの崩壊とともにディスコブームはあっという間に下火になり、多くのディスコが閉店。福岡マハラジャも営業時間を短縮し、早い時間帯にはしゃぶしゃぶ店としてオープンすることに。

「このまま博多マハラジャに残っても、しゃぶしゃぶ店のウエイターの仕事もしながらDJをしなければいけない。そんなのは御免だと、思い切って福岡を離れ大阪に戻りました。その後、大阪のクラブシーンに戻ることをせずに音楽制作の道へと舵を切ることを決心して、お金もなかったのですがローンを組んで、機材を買って、ひとりでコンピューターミュージックを始めました。今はパソコンで音楽を作るというのは当たり前ですが、当時はそういうことをやっている人もいなくて、ひたすら独学です。ついこの前までディスコで四六時中音楽をかけてダンスフロアを盛り上げていたDJが、大阪でひとりパソコンの前でずーっと曲作り。でもそれこそが本当に自分のやりたいことだった、そんな実感もあったんです」

アルバイトをしながら曲作りに浸る生活を2年ほど続けたある日、とあるアーティストから声がかかりアルバム制作に参加することに。アーティストの作った曲をアレンジし整えるため2週間ほど東京で作業するうちに、音楽プロデューサーの目にとまる。

「その方は業界ではとても有名な人で、『サラリーマンをやめて、東京で一緒に仕事をしよう』と言われて舞い上がってしまいました。25歳でいそいそと上京し、そこからはもう丁稚奉公です。給料はほとんどなく、寝床は8畳くらいのスタジオ。そのプロデューサーのレコーディングのたびに、クルマを運転してレコード会社のスタジオまで機材を運びセットして、レコーディング中は見て学ぶ、終わったらまた運転して機材を運ぶ。1年半、毎日そういう生活でした。プロデューサーが深夜に帰宅後の早朝から、次のレコーディングまでのわずかな時間に、睡眠を削ってプロの機材を使わせてもらいながら学ぶという日々でした」

そんな怒涛の日々のなか、当時出会った音楽仲間(現・副社長)とともに深夜に曲作りをし、カセットテープを海外の有名レーベルに郵送。契約が決まると独立し、自身の音楽制作プロダクションを立ち上げた。それがベースメントファクトリープロダクションの始まりだ。

「東京の世田谷区用賀にあるマンションの地下テナントで始めたから『ベースメント』とついています。ぼくらは『ライスワーク』と『ライフワーク』を意識しながらスタートしました。まず日本の有名制作会社と契約し、浜崎あゆみさんなど、当時のエイベックスの有名アーティストの曲のアレンジをしてお金をいただく。これがライスワーク、食べて生きていくための仕事です。そしてライフワークでは、自分たちが現状維持ではなくレベルアップするために、海外のレーベルと契約を結びオリジナルの楽曲をリリースし自己研鑽していく。この2つのワークがあって、仕事も生活も両輪で人生が回り出すんです」

米国ニューヨークで契約したレーベルから発売された北村氏らの音楽は、日本に逆輸入され「洋楽」として、その頃に台頭し始めたクラブシーンでかけられるように。

「そもそも、クラブミュージックの音楽制作だけで食べていくことは非常に難しいとわかっていました。でも、だからといってライフワークを諦める必要はない。だから『うちから曲をリリースしてもいいよ』と書かれた欧米の複数のレーベルから届いたレターを持って、『ここからスカウトを受けているんですけど』と日本のレーベルに見せ、自分たちの価値をきちんと評価して頂き仕事を獲得していきました。こうすればライスワークもライフワークも両方手に入れられる。ぼくの相方はそうやって戦略的に営業活動をしてくれました」

そしてこの後、北村氏のライス&ライフワークは大きな展開を見せIT企業へと進化していく。第2回は、音楽制作会社でありながら、インターネット黎明期にWeb制作を始めたその理由を聞く。

TEXT=安井桃子

PHOTOGRAPH=干田哲平

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