2024年2月、現役を引退した松井大輔。2000年に京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C)でプロデビューしてから、23年もの長いキャリアに幕を下ろした。2004年アテネ五輪後に、フランス2部のル・マンUCへ移籍して以降、フランス国内やロシア、ブルガリア、ポーランドと転戦し、2014年にジュビロ磐田に加入。その後もポーランド、ベトナムと海外移籍やフットサルとサッカーの二刀流にも挑戦した。インタビュー第1回目はそんなキャリアを振り返ってもらった。
ドリブルや僕の経験を後世に伝えていくのが自分の使命
――2024年2月20日に引退発表されました。
「やり切ったという想いがあり、ホッとしています。実は35歳くらいから、いつやめるのかという、タイミングをずっと考えてました。同世代がみんな引退していくなかで、自分のやめ方、終わり方を探していた、そんな旅のような気持ちでしょうか」
――引退までジュビロ磐田でプレーしてほしいとクラブからオファーがあったとか。
「当時の名波浩監督から、『やりたいところまで、ジュビロでプレーしてくれればいいから』と言ってもらえたんです」
――松井さんのタイミングで、ジュビロで引退してほしいということですね。
「ありがたかったです。移籍1年目(2014年)は試合に出られたけれど、J1昇格を逃してしまった。その後はなかなか先発では試合に絡めなくなったけれど、僕のことをリスペクトしてくれるチームメイトやスタッフ、サポーターの存在は力になりました。ジュビロ磐田というクラブ、クラブを取り巻く環境は本当に優しくて素晴らしいんですよ。それだけに、自分のなかで甘えが出ちゃうのはイヤだったんです。常に自分に厳しくありたいという想いがありました」
――そうするなかで、2017年夏にポーランドからオファーが届いた。
「はい。ポーランドでもう一度、海外の厳しい環境に身を投じることで、自分のサッカー人生において、また新しい何かを得られるんじゃないかと。36歳で再チャレンジしました」
――ポーランドは2度目でしたが、今回は2部リーグ。環境も大きく異なったのでは?
「ピッチ環境が劣悪で、そうするとサッカーの内容も違ってくる。自分が活かせる環境じゃないなと。でも、プレーしながら、『この経験が自分の人生にとって、どんなふうに活きるんだろう』と考える時間が増えました。今思うと、そこからはずっと自分探しの旅でしたね」
――2018年、横浜FCに加入。翌年にはJ1昇格を果たしました。
「クラブにとって悲願の昇格を果たせたのは、非常にうれしかったです。京都時代のチームメイトだったカズ(三浦知良)さん、ジュビロでのチームメイトだった俊(中村俊輔)さんをはじめ、チームメイトからの学びもたくさんありましたね。カズさんと自主トレをするようになりコンディションが良くなったし、俊さんからは、サッカーをロジックで考えることを学びました」
――その後、コロナ禍でのベトナム移籍。そして、フットサル挑戦と松井選手の動向には驚きが続きましたが、引退後のキャリアについても意識していたのでしょうか?
「漠然と、先のことは考えながら、過ごしてはいました。やっぱり、経験すること、知っているのと知らないのとでは全く違うなと思います。最終的にフットサルをやったり、40歳で海外、それも初めてのアジアのベトナムへ行ったり、いろんなことを考える機会を得られましたし、それはこれから先に大きなメリットになると思っています」
街に馴染み、結果を残し、愛される選手になれた
――35歳くらいからは、自分らしい終わり方を探す旅だったということですが、それ以前はどういう意識だったのでしょうか?
「純粋に日本代表に入りたい、そのクラブで活躍したい、上へ行きたいという自分の価値を上げたいという想いが強かったですね」
――ル・マンでは1部昇格に貢献し、『ル・マンの太陽』と呼ばれました。フランスリーグは、アフリカ系の選手も多く、高い身体能力で勝負するリーグ。日本人で結果を残す選手はあまり多くはなかった。なぜ、長くフランスでプレーできたと思いますか?
「海外で生き残るためには、リーグや国に馴染まないといけないし、もしくは結果を残す。両方あれば良いですし、馴染まないと結果が残せないという面もあります。でも、馴染めなくても結果が残せる選手もいますよ。だけど、両方ある人は愛される。僕はそれができたと思っています。行ったばかりのころは、フランス語も話せなかったけれど、チームメイトや近所の人の輪の中へ飛び込んで、言葉を覚えていきました。そうやって街やチームに溶け込んでいけたことが、大事だったなと思っています」
――そうやって、クラブや街に愛された。
「愛された選手は、クラブで活躍し、街のシンボルになっていくんです。ル・マンは小さなクラブだったので、そこから、売られていくことで『あいつはすごい選手になった』とサポーターの自慢になるんです。そういう文化が日本にも生まれるといいなと思いますね」
――ル・マンから古豪のASサンテティエンヌへ移籍した松井さんはまさに、自慢の選手になりましたね。けれど、ASサンテティエンヌはビッグクラブ。クラブ内の政治に巻き込まれたりして、出場期間も不安定だった。そこで、ワールドカップ南アフリカ大会に備えて、2009年にグルノーブルへ移籍。2010年の同大会での活躍で、ポルトガルの強豪スポルティングCPへの移籍の可能性が生まれたものの、移籍期間ギリギリで破断に。グルノーブルから、ロシアのFCトム・トムスクへレンタル移籍となりました。
「当時からグルノーブルは財政的な課題を抱えていたので、僕が移籍することでお金も落とせると思っていたけれど、なぜか移籍はできませんでした。トムスクはロシアと言っても、モスクワからも遠い場所で、しかも極寒。基本的に天気が悪く、いつも暗くて、経験したことのない毎日でしたね」
――その後、グルノーブルに復帰するも、クラブが破産し、プロ選手を契約できない4部へ降格したことで、2011年夏にはディジョンへの移籍。ブルガリア、ポーランドを経て、Jリーグへ復帰しました。
「自分のサッカー人生を振り返ると、山あり、谷あり。うまくいくこともあったけど、なかなかうまくいかないってことも多かった。どん底に落ちたこともあります。でも、それも自分の経験。悔しさもあるけれど、しょうがないと思うしかないこともあります。長い海外サッカー人生の中ではお金を払ってもらえないこともあったし、プレーさせてもらえないこともあった。監督とケンカすることもあったし、クラブ内の政治に巻き込まれたこともあります。そんなふうにいろんな経験をさせてもらったことは、糧になったなと思っています」
――まさに日本で選手生活を送っているだけなら、できない経験も多いですね。もしかしたら、必要のない経験もあったのでは?
「どんな経験も必要ない経験はないと思っています。僕が過ごした国、出会った人が僕の人間性を形作ってくれたし、それが僕のサッカー人生です。そんな人生を振り返ったとき、
これから先、自分の道、自分らしい道を切り開いていこうと考えたとき、ドリブルや僕の経験を後世に伝えていくのが自分の使命」
※2回目に続く