2024年J1リーグで闘う、ジュビロ磐田のスポーツダイレクターである藤田俊哉にインタビュー2回目。
現在、サッカー日本代表を構成する選手たちのほとんどが、ヨーロッパのクラブに所属している。代表に限らず、欧州へ挑戦する選手が増加した背景には、大きな歴史的な転換があった。1993年に始まった日本サッカープロリーグ、Jリーグには、選手の移籍がしづらい規約が存在していた。それが移籍金制度だ。
30歳未満の選手が移籍する場合、契約満了後30カ月以内であれば、元所属クラブは移籍先クラブに対して、移籍金の支払いを要求できる。その金額は選手の年齢や年俸などに応じて設定され、若い選手ほど高額になってしまう。
これは日本独自のローカルルールであり、ヨーロッパなどでも「移籍金」と日本で呼ばれるお金が動くが、正しくいえば、「契約不履行に対する違約金」だ。契約途中に契約を満了せずに移籍することに対する違約金で、その金額の上限に取り決めはなく、元所属クラブの意向次第で高騰する可能性がある。
資産のあるクラブへ選手が集中することを懸念し、選手の引き抜きや移籍金高騰を防ぐ狙いがあったと言われるJリーグの規約だったが、1998年に中田英寿がイタリアへ渡って以降、海外でのプレーを夢見る日本人選手たちにとって、海外移籍の足かせにもなった。Jリーグクラブが希望する移籍金の算出方法が、世界のスタンダードとは異なり、レンタル移籍という手段を選ばざるをえなかった。
そんな現状に異を唱えたのが、2007年5月、Jリーグ選手協会(現・日本プロサッカー選手会)4代目会長に就任した藤田俊哉だ。
日本は先進国なのに、なぜサッカーは遅れをとっているのか?
――2023年シーズン、高校生ながらトップチームで活躍していた後藤啓介選手が2024年1月ベルギー1部・RSCアンデルレヒトへ移籍(レンタル)しました。セカンドチームで同国2部リーグを戦い14試合出場6得点の活躍。残留を望まなかったのですか?
「もちろん、主力がいなくなることは痛いです。でも、せっかくヨーロッパでプレーできるチャンスが訪れたんだから、送り出したい。僕らはそういう選手を求めているし、そういうクラブでありたいということです。また成長した姿を見たいし、将来的に彼が戻ってくれば、迎え入れたい。選手のキャリアすべてをフォローするクラブになりたいと考えています」
――後藤選手は4歳のときに、2010年ワールドカップアフリカ大会を見て、海外でプレーすることを目標に掲げたと語っています。その大会後に長友佑都、内田篤人、香川真司らがヨーロッパへ渡り、かの地での日本人選手の評価を高めるきっかけになったと感じます。それも2009年、日本プロサッカーリーグ移籍金制度が撤廃されたことが大きい。藤田さんは当時選手協会会長として、サッカー協会やJリーグと交渉されました。きっかけはどういうことだったのでしょうか?
「僕自身もいつかヨーロッパでプレーしたいという目標はありました。けれど、契約やお金の面で、なんだか難しい話だなというのは、感じていたんです。また、外国人選手のチームメイトと話していると、外国人選手と日本人選手で契約形態が違っていることも知ります。南米やヨーロッパでプレーしている彼らとの契約は、国際的なルールのもとで行われているのに、僕ら日本人選手はJリーグ独自のルール。それっておかしくないかというふうには感じていました。
日本は先進国なのに、サッカー、スポーツの中では、世界から遅れをとっているんじゃないかと。それに甘んじて、黙って従うのが一般的なのかもしれないけれど、僕はそういう不具合を正さないと、日本サッカーの未来はないと思ったんです。だから、世界の基準に合わせるようにしましょうと、日本サッカー協会とJリーグに提案したのです」
――中村俊輔、柳沢敦、小野伸二、稲本潤一など、2002年ワールドカップを契機にヨーロッパへ渡る選手も増えました。藤田さんご自身も2003年にオランダ・ユトレヒトへ移籍されました。Jクラブも海外移籍を容認する流れもありましたが、まずはレンタル移籍という形で移籍するしかありませんでしたね。
「レンタルという形での移籍であっても、評価を得て、完全移籍や契約延長、ステップアップし、さらなるクラブへ加入するという選手もいます。けれど、結局、レンタル期間満了後にJリーグへ戻るしかない選手もいました。ヨーロッパのクラブは、自チームで活躍した選手が、他クラブへ移籍することで得る収入を資金の柱に考えている。レンタルのままだと起用しづらい面もあったと思います。また、一度ヨーロッパでプレーすることで、他クラブ、他国のクラブなどの目にも留まり、移籍先を探すことも可能ですが、レンタルだとそういうことはできないので、日本に戻るしかなかった。選手に自由がないんです」
――短期留学みたいな感じですよね。
「ヨーロッパで生き残るというのは、契約延長をもらったり、他クラブを渡り歩くこと。それができないのは選手の能力の問題もありますが、同時に日本のルールの問題だとも思いました」
――Jリーグの移籍金制度の撤廃は、海外移籍だけでなく、当然国内でも適用されます。それまでは単年契約が当たり前だったけれど、クラブは選手と複数年契約を結ぶ必要に迫られる。
「Jリーグをはじめサッカー協会が反対したのは、そのことが大きいんだと思います。でも、複数年契約はクラブにとって、リスクだけではないはず。世界のほとんどでそのルールが適用されているんだから」
「Jリーグが潰れる」と反対された
――やはり反対されたのですか?
「当時日本サッカー協会会長だった犬飼基昭さんは、『それは当然だよね』と容認してくれました。犬飼さんご自身が欧州三菱自動車の社長を務められていたこともあったからかもしれません。でも、JリーグのチェアマンはNOでしたね。僕らが主張していることが運用されたら、『Jリーグが潰れる』と言う人もいました。
僕は潰れるわけないと思っていましたよ。世界中で運用されているルールを適用して、潰れるのなら、それもしょうがないというようなことを言って、『無責任だ』とひどく怒られましたけど(笑)。ただ、僕らが訴えたのは、Jリーグを守るために発足10年間は、ローカルルールを運用してきたことは理解している。でも、もう15年が経とうとしているなかで、世界基準のルールに改善できないのか? ということです」
――自国でワールドカップも開催し、「世界基準」という言葉が語られていたサッカー界において、なぜ契約問題、選手の権利は国際化できていないのか。
「あまりにドメスティックな話ですよね。『それは選手の総意なのか?』とよく聞かれました。実際は総意ではあるものの、なかには興味のない選手もいるわけです。丁寧に説明し、資料も作りましたが、当然読まない選手もいる」
――自分の地位や権利の話なのに、いわゆるスポーツに政治を持ち込むなじゃないけれど、競技だけに集中するのが美徳とされているから、無関心層も一定数はいたんですね。
「そうですね。クラブから、選手会の要求を飲むと多くの選手と契約できなくなるという話をされた選手もいましたね」
――脅し?
「脅しなのか、本当にそう考えていたのかはわかりませんが、不安に思う選手が出て来ることもありました。ただ、国際サッカー連盟(FIFA)の基準に従ってほしいと言っているだけなのに」
――長い交渉の結果、2009年に日本プロサッカーリーグ移籍金制度が撤廃されました。翌年には海外でプレーする日本国籍選手も加入する日本プロサッカー選手会に名称・組織変更を行い、日本代表選手の待遇改善を訴えることになりましたね。2010年12月には「代表戦のボイコット」という記事がスポーツ紙を賑わせていました。
「代表選手へ日当や保障を訴えたのが、三浦知良さんでした。それが1991年です。それから20年近く経っているのに、当時とほとんど変わらない。勝利給にしても、クラブと比べても相当低い状況でした」
――当時は親善試合での勝利給が20万ほどでしたが、Jクラブでも60万円という話もあり、欧州クラブでは100万円を超えてもおかしくない時代でした。代表人気が高まるなかで、選手に対しての分配が少なすぎると。
「弁護士を介して、申し入れをした途端、当時の小倉純二会長が厳しいコメントをメディアに発しました。『一蹴』という見出しが新聞に掲載されましたね。僕らは代表戦をボイコットするというつもりはなかったけれど、覚悟を示すためにもその可能性は排除しなかった。結果、『お話にならない』というような態度をとられてしまった。実際、選手会長とは会えないと、会ってもらえませんでしたから」
――小倉さん世代が現役時代、彼らはみな、大手企業の社員選手でしたよね。代表は名誉ある活動だから、手弁当で当然という思考だったのかもしれませんが、プロ選手は、みな個人事業主。代表活動中に怪我をしたり、所属チームでポジションを失う可能性もある。肖像権もそうですが、ここでもまた選手の権利を訴えたわけですね。まさに労使交渉ですね。
「僕らも労使関係のプロフェッショナルの力を借りました。ある話し合いの場で、『労働組合でもない団体がそういうことを言う権利はないんだ。君たちはそういうこともわかってない』と言った人がいたんです。『わかっていないんじゃなくて、そういう団体がなくても、きちんと話ができると思っていたのに、できないのであれば、団体を作らなくちゃいけないですね』と応えたら、『そうだ』ということだったので、2011年に労働組合日本プロサッカー選手会を設立しました。作ったら作ったでまた非難されましたけど(笑)」
日本と比べて、ヨーロッパの進化のスピードはさらに速い
――移籍金撤廃を始め、藤田さんが会長として改革されたことは、今考えると日本サッカーにおいて、非常に重い扉を開いた歴史的な行動だったと感じます。
「もし、僕がやらなかったとしても、きっと誰かがやったと思います」
――それでも、当時はかなりバッシングもあったのではないですか?
「実際、どういうふうに言われていたかはわからないけれど、風当たりは強かったです。当時はまだSNSもそれほど拡がっていなかったけれど、もし、今のような状況なら、僕もへこんでいたかもしれませんね(笑)。今、思えば、よくその壁を乗り越えたなと思います。我々は純粋だったし、確固たる信念があり、妥協しなかった。だから余計に反感を買ったのかもしれないけど。それでも、やった価値はあった。交渉過程でのいろんな障壁も『そういう時代だった』ということで、今なら笑い話ですから」
――サッカー界に限らず、選手が自身の権利を主張したり、声を挙げるというのは、日本スポーツ界では、まだまだ異質という時代でした。
「そもそも、日本のスポーツの歴史は、選手側から発信するということがなかったと思うんです。古き良き時代はそれでうまくいっていた部分もあるけれど、プロ化を始め、国際的な舞台で活躍する選手が増えたし、コンプライアンスやハラスメントなどへの意識の高まりも含めて、社会も変わってきている。そういう歴史の中で、僕らの行動もひとつの転換期になったと思います。そうやって今があるから、日本サッカー界も成長している」
――そこから10年が経ち、若い選手がヨーロッパへ渡り成長しています。日本サッカー協会会長には宮本恒靖さんが就任し、Jリーグチェアマンにも野々村芳和さんと、藤田さんの後輩たちが就き、組織内にもさまざまな変化が生まれているのではないですか?
「ものすごく成長したと思うし、もっと成長できると思っています。そうやって変わっていくという感覚は忘れないでいたい。今成長したからよかったね、と終わるんじゃなくて。僕が引退してから、ヨーロッパで見た景色を考えても、彼らの進化のスピードはさらに速い。日本が進む以上のスピードで、進み続けているから。そう考えると、日本のスピード感が遅いと感じる部分もあります。差が縮まっているのかと問えば、縮まっているとは言い切れない微妙な問題だと思います。日本は成長の速度を上げていかないといけない」
※3回目に続く