ジュビロ磐田のスポーツダイレクターを務めている藤田俊哉インタビュー最終回。サッカー王国と名高い静岡県清水市(現静岡市清水区)に生まれた。何度も日本一に輝く学生時代を経て、ジュビロ磐田でプロデビューを飾ると、ここでも日本一、アジア王者に輝いた。現役引退後は、指導者や強化部として、ヨーロッパのクラブで活動してきた藤田が、日本サッカー界でどのような夢を描いているのか。
具体的な道筋はわからなかったけれど、ヨーロッパでプレーしたかった
――サッカー処として有名な静岡・清水で生まれた藤田さんは、どのような子どもだったのですか?
「清水以外ではサッカーがやっていないと思っていた少年でしたね(笑)。ヒーローは高校選手権で優勝した長谷川健太さんで、彼を見つけては自転車で追いかけて、『サインもらえなかったよ』って怒ってるような感じで、本当に狭い世界で生きてましたね」
――地元小学校の少年団でプレーしながら、清水FCという選抜チームにも所属。当時からエリートでした。
「周りから見たらそうなんでしょうね。基本的に子どものころから、思いついたことを口にしてしまう性格だったので、『いったん考えてから話しなさい』とよく言われていました。だから、本当に失言ばかりしていたんです。人を傷つけることもありました」
――というと?
「とにかく、勝ちたいという想いが強くて、『なんでそんなミスをするんだ!』って。小学校のチームメイトは清水FCに比べれば、確かにサッカーがうまいわけじゃないんですが、それが許せなかったんですよね。そんな自分のことを思い出すと、ゾッとします。三保第一小学校時代の友人に『お前はひどかった。あのままいったら、どうにかなっていたと思う』って言われますから。本当に申し訳なかったです。小学生時代が一番ひどくて、中・高・大と進学するなかで整っていった。言葉の大事さを知り、失言とともに成長していったのが僕なんですよ(笑)」
――選手会長時代の話も伺いましたが、現役時代を思い出しても、そんな乱暴な言葉を発するタイプだとは思いませんでした。
「気づくのがすごく遅かったけれど、今はものすごく慎重に言葉を選ぶようにはなったと思います。でもどこかで、そんな自分が自分らしくないかな、面白くないかなと思うこともあります。でも、発した人間以上に受け止めた人間にとっては、言葉の持つ力は大きいことを学びました。だから、今もきちんと話せる人のことを羨ましいと思うし、ボキャブラリーが多い、教養があるというのはこういうことなのかと感じます。だから、日々勉強ですよ」
――清水商業高校時代の後輩には、名波浩さん、大岩剛さんなど、日本代表の指導陣もいます。先輩の三浦文丈さんや後輩の川口能活さんは、今ジュビロのコーチとして活躍している。どういう高校時代でしたか?
「チームメイトはみんな、自分のやりたいことをはっきり持っていましたね。こういう選手になりたい。こういう道に進みたいとか。僕も含めて、みんな生意気だったしね(笑)。大人と試合しても勝てるって思っていたし。トレーニングや戦術もまだまだ科学的じゃない時代だったけれど、みんな情熱がありましたね」
――藤田さんが高校時代には、まだJリーグもなかった時代です。
「高校を卒業したら、大学でもサッカーを続けて……その先の具体的な道筋はわからないけれど、漠然として『ヨーロッパでプレーしたい』とは思っていました」
――今のようにヨーロッパの試合映像がなかなか見られない時代でした。
「そうですね。だけど、サッカーはシンプルなので、良い選手とはこういう選手だろうというイメージはあるんです。それを目指していたし、同時に強いチームになりたいし、楽しいサッカーをしたい……非常にロマンティックだったな」
良いフットボール、良いフットボーラーという理想を常に示す
――以前、ハンス・オフト監督のもとでプレーしていたジュビロ時代に「清商で名波さんは外国人コーチから褒められていたけど、俺は違った。その理由がなんとなく理解できた」という話をされていました。
「高校時代、ブラジル人コーチがいたんです。僕も名波もほめてもらいました。『ボールを持っているときの俊哉はすごい。名波はボールを持っていないときにすごいんだ』と。そのとき、ボールを持っていないときの評価があるんだと初めて知ったんです。田舎の自然発生のような、野生児のサッカー少年だからね。ボールは全部俺に出してくれというようなヤツだったから、無理もないんだけど(笑)」
――ボールのないところの重要性を理解するのは、プロになり、オフト監督のもとでプレーしてから?
「24歳。ちょっと時間がかかってしまった(笑)。僕が選手時代、そして引退後にヨーロッパで身につけたことを、今の選手にはいち早く伝えたい。無駄な時間を選手には使わせたくないから。戦術が進化するなかで、良いフットボール、良いフットボーラーというのが変わってくる部分もあるけれど、価値観や理想形というものを常に示していきたいと思っています」
――現役選手としての目線を今も持ち続けている?
「現役選手が一番だと思っているから。現役選手が一番良いに決まっている。だけど、その時間は限られているから、その時間を大事にして、思いっ切りやってほしい。『やめた俺が言うんだから間違いない』と選手にはいつも言っていますよ。『君たちが一番良いんだから、そのためのサポートを全力でするよ』と」
――プレーヤーズファーストという言葉が、一般的にも繰り返されるようになってきましたが、藤田さんの中ではそれが染みついている。
「そうですね。あえて言わなくても良いくらい。一番であるからこそ、選手はそれを自覚し、覚悟を持ってほしい。やるべきことも少なくないし、プレッシャーも大きいだろうけれど、それはすごく幸せなことだとわかってほしい。これは引退したOB、先輩だから言えることだと思っています」
――ヨーロッパでは、選手の社会的な地位も高く、同時に選手自身が社会的な動きをすることも多いですよね。
「ヨーロッパは選手が社会と非常に近いという印象がありますね。選手はリスペクトをされているけれど、変にスポイルされてもいない。同時に選手も、社会の一員、市民のひとりだという意識を持っている。ボランティア活動や社会貢献という行動をとる選手も多いしね。教育の違いもあるのかもしれませんが、ヨーロッパで、選手の意識の違いは、本当に勉強になりました」
――現役引退後、日本では指導者を目指すことが主流ですが、ヨーロッパではその進路が主流というわけではない。実際、選手時代の実績のない若い監督が活躍する状況もあります。
「監督でいえば、その仕事の数は選手よりも少ないですからね。限られたパイだから。20代で監督を目指す人が実績を積んで、活躍する傾向も増えてきました。ひと昔前は30代前半で現役引退するのが普通でした。現在は30代後半、日本では40代まで現役を続ける選手もいます。そこから、プロチームを指揮できるS級ライセンスを取得するのに5年くらいの時間が必要という現状の日本のライセンス制度は、見直す必要があるんじゃないかなと思っています」
――選手が欧州で活躍する道が広がりましたが、指導者となるとまだ大きな壁がありますね。日本で取得した指導者ライセンスは、ヨーロッパでは使えない。藤田さんも引退後、オランダのフェンロVVVでコーチ業を務めましたが、ライセンスの課題が残りました。
「アジアでは日本のライセンスのトランスファーが可能です。ヨーロッパ内では不可能。日本とヨーロッパとでは、ライセンス取得の過程や条件などの違いもあります。僕が指導者としてオランダへ行ってから10年近くが経っているけれど、まったく改善されていないというのは、日本サッカー界での大きな問題だと思います」
――トランスファーをできるようにするには、ヨーロッパや世界の基準に合わせたライセンス制度へと改革が求められることになるのでしょうが、それによって日本の指導者のレベルアップにもつながるかもしれませんね。
「プロへの指導もそうですが、育成年代の指導なども変わっていく可能性はあると思います。日本サッカーの底上げにもなるはずです。引退したプロ選手に限らず、サッカーに従事する人たちが、指導者として世界で活躍したいという高い目標を持てることになると思っています」
フットボールの世界で一番旬なところに身を寄せたい
――今回は東京で取材をさせていただいていますが、磐田からクルマで移動されたのですか?
「そうですね。家族が東京に住んでいるんですが、ほとんど自家用車で移動しています。去年も4万キロ走りました。磐田までだいたい230キロで、3時間くらいですが、いろんなことを考える時間になるので、その時間が僕にとって必要不可欠な時間なんです。考えを整理したり、やらなくちゃいけないことの順番を決めたり、誰かのことを想ったり。電話で話もできるし。そういうことをするうえで、3時間という時間は貴重なものになっています。
もちろん、リラックスもする時間にもなります。いろんなことを考えたくないときもあるから。でも、渋滞が嫌いなんですよ。だから渋滞を避けて、早朝に出発したり、これは渋滞しそうだなって思ったら、実家のある清水で降りて誰かと会ったり、自由に使っています」
――運転が好きなんですね。
「そうですね。現役時代から私用で東京へ行くときはクルマでしたから。他人が運転するクルマに乗せてもらうのは好きじゃないので、誰かを乗せることは多いけれど、乗せてもらうことはあまりないですね」
――多岐にわたる仕事をするうえで、タイムマネジメントで気を付けていることは?
「時間を大切にすること。約束の時間に遅れるのも嫌いだし、やるべきことはさっさと片付けたいタイプですね」
――藤田さんが加入したジュビロ磐田はJリーグに昇格したばかりでしたが、日本一の強豪クラブになり、全国的には無名だった磐田市の知名度も上がりました。鹿島アントラーズの鹿嶋市もそうですが、サッカーで町おこしができましたね。
「そうですね。ただ、僕らの時代はそういうことをプランニングしてやったわけじゃないんです。ガムシャラに突き進んでいった結果です。でもあれから30年が過ぎ、昔のような手探りの時代は終わったように感じます。
今は、フットボールをわかっている人がより多くクラブに関わっているし、いろいろと計画的に動かせる時代になっている。だからこそ掲げた理想へ向かい、進んでいけると思うんです。でも黄金時代と言われたあのときの高揚感や、町がどう変わったかを知っている人間として、これからはあれよりも上へ行き、あのときを懐かしく思いたい。過去のようになりたいと思っているんじゃなくてね」
――過去ではなく、未来を創っていくと。
「そうですね。自分が長年居たクラブだし、つながりのある人がたくさんいるし、かつてのようなチームになることを願う人もたくさんいるし、また新しいジュビロを応援してくれる人もいっぱいいるから。そういう人たちとこれから良い歴史を作って行きたいという情熱を持っています」
――選手としても、引退後もヨーロッパで活動をされてきましたが、ヨーロッパと日本との違いをどんなふうに感じますか?
「挙げればきりがないほどいろいろありますよ。根本的なものとしては、ヨーロッパはフットボールを大事にしていると感じます。サッカーだけじゃなくて、スポーツが社会の一部であり、生活の一部、日常なんですよね。僕が長く住んでいたオランダには、カテゴリーはさまざまでも、町の至る所にサッカークラブがあり、ピッチがありました。
地元のクラブをすごく応援しているし、誰もがプレーできる環境で、フットボールが日常というのを日々感じられるんです。もちろん、一部はサッカーが好きじゃない人もいるけど、でも絶対数が違うから。そういう文化に憧れますね。またあのフットボール文化のなかに、また身を置きたいなとは思いますね」
――やはり寂しい。
「トップトップの場所に身を置きたいという想いはあるから。でも日本がそのステージになれば、日本にいますよ。フットボールの世界で一番旬なところに身を寄せたいだけだから」
――日本でヨーロッパのような環境づくりをすることが、日本サッカーの強化にもなるのかもしれませんね。
「そういう環境を作らなくちゃいけないし、そういうことを一生懸命やることが、やめたあとの仕事というか、サッカー界に育ててもらったことに対しての恩返しになるんだと思う。今はJリーグで育った人、ヨーロッパで経験を積んだ人間が現役を引退し、いろんな立場で活動をしているけれど、それぞれが日本サッカーを想う熱量を持っている。こうやって日本サッカーの歴史が作られていくんだと思います」