日本のフランス料理を切り拓いた名店のシェフが、人気絶頂期に箱根の地にオーベルジュを建設。その足跡と40年の想いを聞いた。【特集 オーベルジュの誘惑】
オーベルジュの神髄とは“土地を料理する”こと
日本がバブル景気に沸く1986年、東京からクルマで約2時間、そよぐ風と鳥のさえずりが心地よい箱根の山の中で1軒の洋館がその扉を開いた。それが日本初の「オーベルジュ オー・ミラドー」だ。
オーナーシェフは、それまで13年にわたり東京でフランス料理店を営んでいた勝又登氏。彼が営んでいた「ビストロ・ド・ラ・シテ」「レストラン オー・シザーブル」は、当時超人気店。フランス料理といえば、まだホテルの宴会で供されるような、かしこまったコース料理というイメージがあった時代、気軽なビストロというスタイルをはじめとした本場のフランス料理を提供し、フランス料理を日本に根付かせた立役者でもある。
そんな大成功を収めていた勝又氏が、東京を離れ第2のステージとして選んだのが、オーベルジュだったのだ。
「当時は自分の店以外にもプロデュースなどで関わっていた店舗は10軒以上。充実はしていましたが、忙しすぎて本当にやりたい仕事からどんどんずれてしまった気がしたんです」
自分がやりたいこと、それはヨーロッパでの修業時代に遡る。当時オランダやフランスなどで働きながら、まとまった休暇がとれると、勉強も兼ねていろいろな街を訪ねていた勝又氏。そこで出合ったのが、宿泊設備を備えたレストラン、いわゆるオーベルジュだった。
「例えば海が近い街ならブイヤベース、山の中なら自家製の美味しいハムなど、高級なレストランからカジュアルなものまでさまざまですが、宿泊施設は多くても10〜15室程度の小さなもの。でも美味しい料理が楽しめるオーベルジュにはヨーロッパ中から人が集まってくる。人里離れた寒村なのに、こんなに人が!? ということもよくあり、一種の小さな社交場のような雰囲気が漂っていました」
もちろんパリや東京などの都会のほうが、世界中からの食材を容易に集めることができ、あらゆる料理ができる。
「でもそんな小さな村のオーベルジュに集まり、エレガントな雰囲気のなかで料理を楽しむ人たちを見て、料理にその土地の季節と香りがちゃんとあることが大事だと感じたのです」
勝又氏が言う“土地を料理する”とは食材だけでなく、自然環境や例えばプロヴァンスなら赤い瓦屋根が続くなど、その土地独自の建物も含め、その場所が纏う土地の空気感を形にすることだ。そんな土地の魅力を自分の料理でお客様に明確に伝えたいという想いが、勝又氏を新たなステップへと駆り立てた。
とはいえ、“オーベルジュ”という言葉自体、日本ではまったくといっていいほど誰も知らない時代。さらにバブル期ということもあり土地の値段も高騰し、自己資金と銀行融資の限られたなか決めたのが、以前よりよく訪れていた箱根だった。
「山の中ですが、ちょっと下りれば港も近く畑も多いので、さまざまな食材が豊富。ここに自分にとっての第2のステージをつくろうと決めました」
ヨーロッパの地方の邸宅のような建物は、イメージ写真をまとめたスクラップブックなどから画家にスケッチを描いてもらい、それをもとに設計図を作成。なかでもダイニングルームの暖炉は納得のいく形になるまで、3度もつくり直したそうだ。すべての家具はミラノサローネまで足を運び、自らセレクト。海外の歴史ある邸宅同様、現在も当時の家具を丁寧に手入れしながら使用している。
味だけではないこの地のすべてを体感
「オーベルジュは24時間眠らないレストラン」と言う勝又氏。
「数時間だけ滞在するレストランと異なり、お客様の1日をお預かりする。オーベルジュの旅とは『オー・ミラドー』の門をくぐったところからではなく、友人と語らう車中や、途中に寄って寛ぐ温泉もすべてにわたります。例えば帰りにランチバケットを渡して、食べるのにちょうどいい眺めのよい場所をご紹介するなど、この滞在すべてを存分に楽しんでいただくのが私たちの仕事なんです」
料理を楽しむだけではなく、溢れる太陽の光や心地よい風と土の香り、目に飛びこむ新緑や紅葉など季節の移り変わり、そして集う人々の高揚感。この土地のすべてを体感できるのがオーベルジュの楽しみなのだ。
常連の方も多く、ここでプロポーズし結婚式を挙げたご夫婦のお子さんが、またここで結婚式をする、そんなエピソードも約40年という歴史ならでは。でもそんな老舗でありながら、常連でも「同じ料理を食べたことがない」というほど、実は定番メニューはないという。それは日々異なる食材に対峙し続け、時代とともに料理も進化し続ける証でもあるだろう。
さらに長い年月をかけ、培ってきたのは地元生産者とのネットワークだ。
「当たり前ですが、料理は生産者がいてこそ成り立つもの。農家、漁師、家畜生産者など、それこそ卵ひとつにいたるまで素晴らしい食材を手に入れられるよう信頼を築いてきました。私も生産者の方をお手本にして畑をつくったのですが、最近は他のシェフたちもうちの畑の野菜に興味を持ってくれています。フランスでも地方の名店がその村を支えるべく活動しているように、『オー・ミラドー』も小さなオーベルジュではありますが、地域に対する影響力を高めることで生産者も支えていきたいと考えています」
現在は日本オーベルジュ協会理事長の役も担う勝又氏。オーベルジュを開きたいというシェフは皆、話を聞きに彼のもとを訪れるという。
「1日2組限定だったり、シェフが野菜づくりや狩猟、漁業にも挑戦したり。素晴らしい景色が見える立地だけど、ゲストに料理に真剣に向き合ってもらうためダイニングに敢えて窓をつくらないオーベルジュなど、自分たちの時代とは異なるさまざまなコンセプトのオーベルジュが数多く出てきています。古い慣習にとらわれることなく、これからも確実に進化していくはず。新たな時代をつくることができるオーベルジュの未来に期待しています」
この記事はGOETHE 2024年8月号「総力特集:オーベルジュの誘惑」に掲載。▶︎▶︎ 購入はこちら