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2024.02.20

スケベ過ぎて辞表を提出!? 『源氏物語』の登場人物のモデルとなった女性とは

2024年の大河ドラマ「光る君へ」。その主人公・紫式部が描いた世界最古の長編小説『源氏物語』は、実はかなり“やばい”本だった!? 『源氏物語』の知られざるエピソードを、『やばい源氏物語』(ポプラ新書)から一部を引用、再編集してお届けする。これを知っておけば、『源氏物語』がよりいっそう楽しめること間違いなし! #1

源氏物語の絵 桜の木の下で手を取り合う男女

天皇や僧侶など、実際の人物もモデルとなっていた

リアリティということでいうと、『源氏物語』の登場人物は、多数の実在の人物がモデルにされていると言われています。

主人公の源氏は、貴族政治の頂点を極めた藤原道長をはじめ、醍醐天皇の皇子で源氏に賜姓(しせい)され、左大臣として活躍するものの、失脚して太宰府に左遷された源高明(みなもとのたかあきら)、色恋に生きた在原業平(ありわらのなりひら)、その兄で須磨で謹慎することになった在原行平(ありわらのゆきひら)等々、モデルとされる人物は多々います。

また、源氏の父・桐壺帝(きりつぼてい)は醍醐天皇がモデルとされ、『源氏物語』では死後、地獄の責め苦を受ける中、須磨で謹慎する源氏を案じ、その夢に現れます。

一方、醍醐天皇にも堕地獄説があり、『北野天神縁起』では、菅原道真の祟りで地獄に堕ちた天皇を、僧の日蔵(にちぞう)が訪ね、蘇生してその話を伝えるという設定になっています。

宇治十帖の“横川の僧都”に至っては、同名の呼び名のあった同時代の源信がモデルとされています。横川の僧都が宇治十帖に登場した時は六十歳余りで、五十代の妹尼、八十代の母尼がいるという設定ですが、

「この僧都は源信をモデルにしたことはほぼ間違いないところである。また妹も安養尼と推察される」(石田瑞麿『源信』解説)

といいます。

醍醐天皇は『源氏物語』ができる七十八年ほど前に死んだ人です。それに対して“横川の僧都”こと源信は、『源氏物語』が書かれたとされる一〇〇八年にリアルタイムで生きていた。

宇治十帖が書かれたのはそれよりあとかもしれませんが、いずれにしても、当時の人にとっては「今の人」です。

醍醐天皇をモデルにしたと思しき桐壺帝が出てきた時点では、「これって昔の物語なんだな」と思って読み進めていたのが、宇治十帖に至って、”横川の僧都”が登場すると、「これって今の物語なんだ!」と、ストーリーが一気に身近に迫ってくるわけです。

実在の人物をフィクションに登場させるという手法は、現在でも行われていることで、古い例ですと、漫画『巨人の星』には巨人軍が出てきて、監督も川上哲治監督です。

こうした手法を取ると、より現実らしくみえるのと、モデルがいてその言動がある程度分かっていますから、物語にも整合性や深みが出る。何より読者は物語を身近に感じるという効果があります。

紫式部がそれを狙ったかは分かりませんが、「この物語を“作り事”と思ってもらって困る」というのが紫式部のスタンスですから、リアリティを追求する過程でしぜんと実在の人物がモデルになったのではないでしょうか。

好色な老女のモデルは、紫式部の嫂?

中には、『源氏物語』のモデルにされて、不名誉な目に遭った人もいるようです。

それが源典侍(げんのないしのすけ)のモデルです。

源典侍は桐壺帝に使える老女房で、身分が高く、気働きもあり、上品で人々の信望のありながら、物凄く浮気な性格で、色恋方面では軽々しい。それで源氏は「こんなにいい年をして、なぜこうも乱れているのだろう」と好奇心を抱いて口説いたところ、まんざらでもない反応で、男女の仲になった。

それを源氏の親友の頭中将(とうのちゅうじょう)が聞きつけ、「こういうのはまだ思いつかなかった」と、典侍の好色心を試したくなって、こちらもねんごろになった。

この時、典侍は五十七、八歳。源氏は十九歳で、頭中将の正確な年齢は不明ですが、二十代であることは確実です。

そんな頭中将は、源氏が常日ごろから真面目ぶって、いつも自分を非難していることが面白くなくて、源氏をぎゃふんと言わせてやろうと狙っていました。

そして、宮中の温明殿(うんめいでん)で源氏と典侍が寝ているところを発見したのを幸いに、忍び込んで太刀で脅すと、源氏は「今なおこの典侍が忘れかねているとかいう修理大夫(すりのかみ)かな」などと面倒に思っている。典侍は好き者らしく、さらに恋人らしき人がいるんですね。

結局、相手が頭中将と分かって、最後はドタバタ劇になるという笑われ役です。典侍はのちに七十過ぎて尼になった姿でも登場し、相も変わらず色めいた受け答えをして、源氏に呆れられています。

この源典侍のモデルが、角田文衞(つのだぶんえい/日本の歴史学者)によると、紫式部の夫の藤原宣孝の兄・説孝(ときたか)の妻の源明子だというんです。

「長保・寛弘年間において『源典侍』と呼ばれていた女官は、源朝臣明子だた一人で」「この明子は、紫式部の嫂(あによめ)であった」「明子の夫・藤原朝臣説孝は、『尊卑文脈』(第二編、高藤公孫)を按ずるまでもなく、紫式部の夫・宣孝の同母兄であった」(『角田文衞著作集』第七巻)と。

角田氏曰く、源明子が、「浮気な『色好む者』であったかどうかは今日では証明できない」ものの、問題は、「当時の読者が源典侍と言えば誰もが源朝臣明子を想起したこと、また何人も源典侍と明子との想念上の結びつけができぬほど明子が貞潔な婦人ではなかったらしいことにある」(同前)

といい、寛弘四(一〇〇七)年五月七日、時に五十歳ほどの明子が、辞表を出して宮仕えを退こうとしたのは、『源氏物語』の源典侍と彼女を同一視する女房たちのひそひそ話に堪えられなくなったからではないか、といいます。

「明子の辞表は、余りにもひどい噂に堪えきれなくなった気弱さと、甚だしい名誉棄損に対する抗議とに由来したものと理解すべきである」(同前)

というのです。

筆禍事件とでも言うべきでしょうか。

結局、明子の辞表は受理されず、最終的に明子が致仕(ちじ/官職を退いて隠居すること)したのは寛仁二(一〇一八)年のことです。

ちなみに、紫式部に“日本紀の御局”とあだ名を付けた左衛門(さいも)の内侍(ないし)という人物は、寛弘四年の明子の辞表提出の際、明子が後任に指名した人で、親しい部下であったといいます。

そんな彼女が紫式部に「激しい憎悪の念を抱き、事毎に彼女の悪口を言ったとすれば、寧ろそれは、紫式部にとって自業自得ではなかったか」と、角田氏は指摘しています。

本当のところは分かりませんが、あり得ぬことではないかもしれません。

TEXT=大塚ひかり

PHOTOGRAPH=アフロ

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