日本の歴史において、誰もが知る織田信長。歴史に名を残す戦国武将のなかでも、信長は極めて特異な人物だった。交渉力、絶体絶命のピンチを乗り越えるアイデア力、咄嗟の判断力……。信長の奇想天外で機転の効いた行動は、日々無理難題を強いられるビジネスパーソンのヒントになるだろう。今回は、敵の情報源があまりに少ない戦国時代だからこそ起きた、珍しい戦の決着についてのエピソードをご紹介! 作家・石川拓治さんによるゲーテの人気コラム「信長見聞録」を朗読という形で再発信する。
噂話が唯一の情報源の時代
「知彼知己、百戰不殆」
春秋時代の兵法書『孫氏』の一節だ。敵(彼)を知り己を知れば、百戦危うからず。「知己」はさておき、「知彼」もなかなか難しい。偵察衛星や軍事ドローンを駆使できる今でも難しい。まして信長の時代、戦で一番難しいのは「彼知」だった、と言っても過言ではない。
この時代の逸話には、敵の兵力を正しく推測する知恵にまつわる話が少なくない。目の前の敵の数でさえ、地形やこちらの心理状態によって、時に何倍もの単位で見間違えるというのが、現実の戦場を経験した人々の共通認識だった。
眼前の敵ですらそうなのだから、例えば隣の隣の国の大名の軍事力を正確に知ることなどほとんど不可能だった。他国に潜入し諜報活動を行う、乱破(らっぱ)とか素破(すっぱ)と呼ばれた専門職があったという話もあるが、情報の精度は高くはなかったはずだ。
この時代の人々が最も信頼した情報は、おそらく人々の噂話だった。武田信玄が尾張からの旅僧をもてなし、信長の噂話を熱心に聞いたという話を前に書いたけれど、裏を返せば、信玄ほど諸国の事情に通じた戦国武将も、情報源は極めて限られていたということなのだ。
その信玄は、当時の諸国の噂話のなかの巨星だった。信長が都(みやこ)に兵を進めた後も、ひとたび信玄の軍勢が西上すれば、尾張の成り上がり者の天下など風前の灯だ、という風説が巷(ちまた)でしきりに囁(ささや)かれた。足利義昭や朝倉義景などの「当事者」までもがそれを信じた。いや、他ならぬ信長でさえ、どの程度までかは別として、この風説にある程度の信憑性を感じていたはずだ。
証拠はある。まず信長は早い時期から信玄に誼(よしみ)を通じ、信玄の息子勝頼に養女を嫁がせ、その後、嫡男信忠と信玄の娘松姫の婚約を成立させている。
もっともこの婚約は、信玄の軍事行動で反古(ほご)にされる。信長包囲網の一翼を担うべく、信玄が大軍を起こしたからだ。ところが三方原(みかたはら)で徳川軍を破り、三河へと兵を進めたところで、武田軍の快進撃は止まる。信玄が陣中で病を発したのだ。甲府に帰陣する途上で信玄は没する。
その後、信長と家康の連合軍は、勝頼の率いた武田軍を完膚無きまでに叩き潰す。これが有名な長篠の戦いで、大敗を喫した勝頼は信玄の代からの有力な家臣の多くを失い、勢力を大きく弱体化させる。
音声で聞く! 5分で学べる歴史朗読
Takuji Ishikawa
文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。