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2020.11.18

信長見聞録 天下人の実像 ~第二十二章 武田勝頼〜

織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓(ざんし)は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。

信長見聞録

信長のコトバ:「早々落着、我れ乍(なが)ら驚き入る計(ばか)りに候」

「知彼知己、百戰不殆」

春秋時代の兵法書『孫氏』の一節だ。敵(彼)を知り己を知れば、百戦危うからず。「知己」はさておき、「知彼」もなかなか難しい。偵察衛星や軍事ドローンを駆使できる今でも難しい。まして信長の時代、戦で一番難しいのは「知彼」だった、と言っても過言ではない。

この時代の逸話には、敵の兵力を正しく推測する知恵にまつわる話が少なくない。目の前の敵の数でさえ、地形やこちらの心理状態によって、時に何倍もの単位で見間違えるというのが、現実の戦場を経験した人々の共通認識だった。

眼前の敵ですらそうなのだから、例えば隣の隣の国の大名の軍事力を正確に知ることなどほとんど不可能だった。他国に潜入し諜報活動を行う、乱破(らっぱ)とか素破(すっぱ)と呼ばれた専門職があったという話もあるが、情報の精度は高くはなかったはずだ。

この時代の人々が最も信頼した情報は、おそらく人々の噂話だった。武田信玄が尾張からの旅僧をもてなし、信長の噂話を熱心に聞いたという話を前に書いたけれど、裏を返せば、信玄ほど諸国の事情に通じた戦国武将も、情報源は極めて限られていたということなのだ。

その信玄は、当時の諸国の噂話のなかの巨星だった。信長が都(みやこ)に兵を進めた後も、ひとたび信玄の軍勢が西上すれば、尾張の成り上がり者の天下など風前の灯だ、という風説が巷(ちまた)でしきりに囁(ささや)かれた。足利義昭や朝倉義景などの「当事者」までもがそれを信じた。いや、他ならぬ信長でさえ、どの程度までかは別として、この風説にある程度の信憑性を感じていたはずだ。

証拠はある。まず信長は早い時期から信玄に誼(よしみ)を通じ、信玄の息子勝頼に養女を嫁がせ、その後、嫡男信忠と信玄の娘松姫の婚約を成立させている。

もっともこの婚約は、信玄の軍事行動で反古(ほご)にされる。信長包囲網の一翼を担うべく、信玄が大軍を起こしたからだ。ところが三方原(みかたはら)で徳川軍を破り、三河へと兵を進めたところで、武田軍の快進撃は止まる。信玄が陣中で病を発したのだ。甲府に帰陣する途上で信玄は没する。

その後、信長と家康の連合軍は、勝頼の率いた武田軍を完膚無きまでに叩き潰す。これが有名な長篠の戦いで、大敗を喫した勝頼は信玄の代からの有力な家臣の多くを失い、勢力を大きく弱体化させる。

それでも信長は、信玄が手塩にかけた武田家の軍事力を侮(あなど)らなかった。勝頼と決着をつけたのは、天正十(1582)年のことだ。武田の親族、木曽義昌の織田への寝返りを契機に、信長は信忠を大将とする軍勢を信濃国へ送りだす。このとき信長は、信忠にくどいくらい慎重を期すよう命じている。その形跡は、息子の補佐に任じた滝川一益宛の書状からも読み取れる。曰く、信忠は若く手柄を立てようと焦るに違いないから、抑えるように。武田の本隊は信長が討ち果たすから、と。さらに落ち度があれば、息子といえど二度と私の前に顔を出すな、とまで釘をさしている。武田の底力を恐れたのだ。けれど信忠は本格的な抵抗を受けずに、武田領内を勝ち進む。勝頼の本隊は信長率いる大軍で押し包んで決着をつけるつもりだったが、その到着前に勝頼は一族とともに自刃して果ててしまう。信長には強敵を倒した喜びより、驚きのほうが勝っていたらしい。

「早々落着、我れ乍ら驚き入る計りに候」※

あまりに早く決着がついてしまい、我ながら驚くばかりだと、秀吉をはじめとする家臣に書き送っている。信長は長い間、幻と向き合っていたのかもしれない。「知彼」は難しいのだ。

※『織田信長文書の研究 下巻』(吉川弘文館刊/奥野高廣著)731ページより引用

Takuji Ishikawa
1961年茨城県生まれ。文筆家。不世出の天才の奮闘を描いた『奇跡のリンゴ』『天才シェフの絶対温度』『茶色のシマウマ、世界を変える』などの著作がある。織田信長という日本史上でも希有な人物を、ノンフィクションの手法でリアルに現代に蘇らせることを目論む。

TEXT=石川拓治

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