竹久夢二は大正浪漫を代表する画家だが、あまりの多才ぶりで美術史における立ち位置はまだ曖昧かもしれない。楽譜や本の装幀を手がけるグラフィックデザイナーでもあり、舞台美術や建築も手がけたし、文章も書いた。さらに半襟や日傘、ポチ袋などを販売する夢二オリジナルのブランドショップ「港屋絵草紙店」も持っていた。そんな器用な彼が遺した油彩画は彼の真骨頂かもしれない。■連載「アートというお買い物」とは
油彩画に見る、竹久夢二という画家の存在感
竹久夢二の生誕140年、没後90年の展覧会が東京都庭園美術館で開催されている。この展覧会には長らく所在不明だったが近年、発見された油彩画の名品《アマリリス》が出品され、話題になっている。
この絵は1919年9月に福島で開催された「竹久夢二抒情画展覧会」に出品されたことを地元紙『福島民報』が図版とともに報じている。その展示後、夢二はこの絵を彼が長期逗留した東京・本郷の菊富士ホテルのオーナーに贈った。菊富士ホテルは当初、外国人向けのホテルで、のちに大正の文化人たちの“高等下宿”として愛された宿である。《アマリリス》は閉館するまでこのホテルの応接間に掛けられていたというがその後の所在は不明だった。それがこのたびの周年の展覧会を前に発見され、岡山の夢二郷土美術館の所蔵となった。
描かれている女性は菊富士ホテルで夢二と一緒に暮らしていた職業モデルで、夢二がお葉と呼んでいた本名・佐々木カ子ヨ(かねよ)だと言われている。この絵を描いた少し前、夢二は笠井彦乃という日本画を学んでいた女性との恋愛にやぶれた。その少しあと、彦乃は病死した。
夢二の生涯を作品と当時の写真や書簡とともにまとめた本で、恋愛についても語られている本、『惜しみなき青春 竹久夢二の愛と革命と漂泊の生涯』(ノーベル書房 1969年)によると、夢二とお葉が出会ったのは大正8年(1919年)7月だった。別の資料によれば彼らは春頃に出会ったとも言われる。彼女をモデルにした《アマリリス》は前述のように、この年の9月には福島で展示されている。出会ってほどなくして描き、展示した絵。夢二の想いが込められている。
女性を画面中央に描きながら、手前には大輪のアマリリス。女と花、2つの主役とも言えるし、あるいはアマリリスの特に蕾の方は女性の髪飾りのようにも見える。中南米原産でヨーロッパで愛されたアマリリスと、秋田で生まれ、東京の美容学校に通っているときにモデルとしてスカウトされたお葉。そんな、流転、そして、和洋折衷。
彼女は当時まだ16歳。夢二の恋人になったが歳は20くらい離れていたことになる。女と花の間にある白い陶磁器、それから手に持った本の白いページによって、画面が煩雑にならずに済んでいる。グラフィックデザイナーとしても一流の夢二ならわけもない技術の発揮である。
もう1冊、以前、谷崎潤一郎について調べたときに入手していたこの本があった。近藤富枝『文壇資料 本郷菊富士ホテル』(講談社 1974年)。
これによると、本郷菊富士ホテルは谷崎をはじめ、正宗白鳥、直木三十五、宇野千代、尾崎士郎、石川淳、坂口安吾らとも縁のあった宿であった。
この本にはやはり、《アマリリス》に関する記述があった。
夢二と親交のあった(画家の)宇留河泰呂は、随筆『断片歌片』に次のように誌している。
近藤富枝『文壇資料 本郷菊富士ホテル』講談社 1974年
『桃割れか唐人髷、別に誰それ好みというのではない。かわいい娘の顔のそばに、アマリリスがのぞいている。葉っぱや茎の線が鮮やかである。多分二十号位の油絵だった。それに手を入れながら話をした。本郷菊坂で名の通った菊富士ホテルの二階にある一室での、夢二との初対面である。東京生まれの甲州育ち、甲州中学に通っていた中学生の身分だから、今のように手軽に東京と行き来出来るなどの贅沢が許される筈もなく、従ってこの訪問は、私が慶応への入学受験の為に上京した、その序(ついで)のことだったに違いない。
背の低い、色黒の、チャップリン髭に近いのを生やして、紫色の毛糸のシャッポをあみだにかぶった夢二は、笑う時目尻にめだつしわをよせて、そのあたり何ともいえず柔和だった。』
まさに絵を描いている夢二に会った時のことが書かれている。「アマリリスがのぞいている」というのは思い出して、そう感じたのだろう。「のぞいている」というにはあまりに花が大胆なのだが。「多分二十号位の油絵だった」とあるが、20号といえば、727 × 606(mm)で《アマリリス》は604 × 407(mm)なので、実際より大きい絵だった印象を与えたということだろう。
お葉と夢二が出会ったのが、1919年春か夏、9月にはこの絵を展覧会に出しているので、「それに手を入れながら話をした」というくらいだから、夏の話だと思ったのだが、入学試験が夏にあったとは考えにくいことからすると、展覧会から戻った絵に夢二がさらに手を加えていたということだろうか。ともかく、それからこの絵は、菊富士ホテルの応接間に飾られ、閉館するまでそこにあったが、その後の行方がわからなかった。
菊富士ホテルを去る日、夢二はお葉をモデルにした油彩画を残していった。この絵は、ホテル終業の日まで応接間を飾っていた。
前出『文壇資料 本郷菊富士ホテル』
ちなみに、丁場の資料によると、逗留者の中には宿賃の払いが悪かった者も多くいたようだが、夢二はそんなことはなく、清算に関しては問題がなかった。なので、宿代の代わりに絵を置いていったということはないようだ。
菊富士ホテルは1944年3月、戦況が悪化する中、食糧統制のため、30年の歴史を閉じ、軍需会社の寮として売却された。翌1945年3月10日の東京大空襲によって、建物は灰燼に帰した。つまり、ホテルは廃業を余儀なくされて、その結果、絵はホテルの旧オーナーが引き上げ、どこかに保管したのだろう。それが幸いして、空襲による焼失を免れ、生き残ったということになる。たとえばそんな数奇な運命をたどるのは絵も人間と同様ということだ。
さらに、夢二の油彩画を見よう。夢二が唯一、外国人女性を描いた絵だ。夢二は晩年、ハワイ、アメリカ西海岸からヨーロッパに外遊しているがその旅の中、アメリカ西海岸で描いたものだ。
夢二好みの細身の女性が胸も露わに横たわっている。夢二はジョルジョーネやティツィアーノの描いた裸婦の図版を見たことがあったのだろうか。体と同じ方向に流れる背景のストライプが女性を一層際立たせている。ここでもまたグラフィックの本領を存分に発揮していると言える。
この絵はロサンゼルスにスタジオを持っていた写真家、宮武東洋に夢二から託されていた。10年ほど前、夢二生誕130年を迎える時に所在がわかり、これもやはり、夢二郷土美術館の所蔵となっている。
その外遊中に体調を崩した夢二は帰国後、台湾(当時は日本の統治下)に療養を兼ねて向かうが病状はむしろ悪化し、翌年の1934年に満49歳の短い生涯を終えている。夢二が遺した油彩画はおよそ30点、風景画や静物画もある。
これらの油彩画を見たあとは、竹久夢二という画家の存在感が増すだろう。しかも今回、夢二が活躍した頃と同時代の建物である旧朝香宮邸を前身とする東京都庭園美術館で見られることで、この体験を特別なものにしてくれるのである。
生誕140年 YUMEJI展 大正浪漫と新しい世界
会期:〜2024年8月25日(日)
時間:10:00〜18:00 ※入館は閉館の30分前まで
会場:東京都庭園美術館(本館+新館)
休館日:月曜 ※ただし7月15日(月・祝)、8月12日(月・祝)は開館、7月16日(火)、8月13日(火)は休館
Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。雑誌、書籍、ウェブへの美術関連記事の執筆や編集、展覧会の企画や広報を手がける。また、美術を軸にした企業戦略のコンサルティングなども。前職はマガジンハウスにて、ポパイ、アンアン、リラックス編集部勤務ののち、ブルータス副編集長を10年間務めた。国内外、多くの美術館を取材。アーティストインタビュー多数。明治学院大学、愛知県立芸術大学非常勤講師。
■連載「アートというお買い物」とは
美術ジャーナリスト・鈴木芳雄が”買う”という視点でアートに切り込む連載。話題のオークション、お宝の美術品、気鋭のアーティストインタビューなど、アートの購入を考える人もそうでない人も知っておいて損なしのコンテンツをお届け。