ちょっと変わったこの絵は何で描かれているのか? よく見ればわかるかもしれない。これは刺繍なのである。現代美術家の青山悟は刺繍で絵画を描く。彼の展覧会が目黒区美術館で開催中だ。展覧会の図録を紹介しながら見ていこう。■連載「アートというお買い物」とは
緻密な刺繍作品を生み出すアーティスト
ミシン(ソーイングマシン)はいろいろなものを象徴する。それは産業革命そのものであったり、それまでの手仕事を奪った敵であったり、主に女性労働者がミシンを使って仕事をしたことからのジェンダー観だったり。急激な近代化が引き起こす様々な問題や矛盾を実体化したものとしてある。青山の画材はそれなのだ。
産業革命以後、芸術は少しずつ大衆のものになっていき、その流れが現代美術につながっていることには恩恵や皮肉を感じたりもするのだが。
青山はロンドンのゴールドスミスカレッジのテキスタイルアート科に学んだ。学科生の9割以上は女性だった。アートとテキスタイル、芸術と労働、その諸問題、そしてもちろんフェミニズム。彼にとってロンドンでアートを学ぶことはそれらのテーマをも同時に引き受けることだった。
青山の作品を見ると誰もがまずその刺繍での表現の緻密さや繊細さに目を奪われる。そして次に考えさせられるのがそのモチーフだ。たとえばこの一万円札の作品は一万円札を模しているが一万円札ではない。あたりまえだ。札の透かしの部分には暗闇のなかだけで光る糸で「見えざる者 消えゆく者に 光を!」と刺繍してある。
青山はこの一万円札を制作する時間を東京都の最低賃金に換算することで、労働の対価について考える。美術品がアートコレクターである資産家に欲望の対象にされること、注目されることと、最安値の労働を対比させることで問題提起しているのだ。
道端に打ち捨てられたレシートという何の価値もないものに目を向け、それを元に刺繍で制作し、作品にする。買い物後、不要となってしまうようなレシートから現代を読み取る。マクドナルドのレシートから、世界を席巻したグローバリズムの末端を感じ取ったり、地球環境保護という大きなテーマがあり、そこから降ってくるスーパーのレジ袋の有料化問題。世界は過去、資本家たちの思い描いた方向に作られてきて、現在その恩恵を受けながらも、未来に対してこれではいけないという意識から環境を考える。
その辺で拾ったレシートから現代に生きる我々に突きつけられた課題が見える。それは青山が刺繍にするからだ。こんな小さな刺繍作品が大きな問題にアクセスする。
上はモリスの言葉「芸術への感受性を持つ合理的な人は機械を使用しなくなるだろう」を引いた作品で、モリスの著作の岩波文庫を刺繍で作っている。
イタリア、トリノ出身のアーティスト、アリギエロ・ボエッティ(1940-1994)は世界地図上のそれぞれの国土をその国の国旗で表す作品で知られる。このシリーズはおよそ20年間で150点以上がつくられるのだが、戦争の世紀である20世紀は国の境界線が変わり、それに伴って作品も変化していく。
制作にはアフガニスタンやパキスタンの職人が協力していて、そんな紛争の絶えない地域の名もなき人々が関わっていること、国境が頻繁に変わることを示すこの作品には反戦の意思も込められている。
青山にも世界地図の作品がある。こういうものだ。
ボエッティの地図よりはかなり現実に正確な形をとっている。国境線はない。誰でもあの歌を思い浮かべるだろう。
♫想像してごらん、国なんてないって…
ところがこの地図は暗いところでは国境が浮かび上がる。蓄光の刺繍糸で国境が仕込まれている。これが現実だ。青山は2015年に行った「名もなき刺繍家たちに捧ぐ」という展示で、こういう地図、さらに刺繍をする人々の写真の上に刺繍した作品を発表した。
新しいものを生み出し、生活を向上させるのがクラフトやデザインの仕事であり、いわばそれは問題に対する解答を導き出してくれるものである。しかし、青山悟の仕事は本来そんな解答を出してくれる側の道具を使って、逆に問題提起をしてきてくれるものだから、見る者の心の奥深くに届き、忘れられない印象を残すのである。今後も我々の胸先に問題を突きつけてくれるだろう。巧みな手業と自分の頭で考える作家だけが持つ説得力を武器にして。
青山悟 刺繍少年フォーエバー
会場:目黒区美術館
住所:東京都目黒区目黒2-4-36 目黒区民センター敷地内
会期:2024年6月9日(日)まで
休館日:月曜
会館時間 :10:00〜18:00(入館は〜17:30)
観覧料:一般¥900
Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。雑誌、書籍、ウェブへの美術関連記事の執筆や編集、展覧会の企画や広報を手がける。また、美術を軸にした企業戦略のコンサルティングなども。前職はマガジンハウスにて、ポパイ、アンアン、リラックス編集部勤務ののち、ブルータス副編集長を10年間務めた。国内外、多くの美術館を取材。アーティストインタビュー多数。明治学院大学、愛知県立芸術大学非常勤講師。
■連載「アートというお買い物」とは
美術ジャーナリスト・鈴木芳雄が”買う”という視点でアートに切り込む連載。話題のオークション、お宝の美術品、気鋭のアーティストインタビューなど、アートの購入を考える人もそうでない人も知っておいて損なしのコンテンツをお届け。