今回ゲーテでは、現代美術作家・杉本博司氏の作品や、小田原に設立した文化施設「江之浦測候所」に潜入取材を行った。その取材の貴重なアートコレクションの写真を一挙公開する。杉本博司氏のインタビューはこちら。
杉本博司氏の作品、江之浦測候所、所有するアートを一挙見!
上:室町時代『春日鹿曼荼羅』。ニューヨークで古美術商も営む杉本が現代美術作家に生業を絞ろうとした頃に出会った『春日鹿曼荼羅』。入手は当時の彼にとって大変な出費だったが、その後の収集を占うともいうべき重要な1点。
右:杉本博司(海景五輪塔)、須田悦弘(鞍、蓮台 補作)『春日神鹿像』。『春日神鹿像』は銅製で首に鈴付きの胸懸(むながい)をあらわしているので春日神鹿と思われる。鞍などが失われていた。現代美術作家、須田悦弘に台座の補作を依頼し、そこに杉本作品である『光学硝子五輪塔』をのせている。この五輪塔、仏舎利(ぶっしゃり)を納める代わりに『海景』が浮かぶ。
展示風景より、杉本博司『春日大社藤棚図屏風』(2022)
藤の花を見下ろすのは神の視線である。2022年春、晴天、無風の日に杉本氏は高い脚立の上から満開の「砂ずりの藤」を撮影。阿波の和紙に出力し、六曲一隻の屏風に仕立てた。実は1977年にも杉本氏はここで満開の藤を見たという。その時は本当に花が地面に接しており、その生命力に圧倒されたと綴っている。
若宮神楽殿での展示風景より、『甘橘山春日大社遠望図屏風』(2022)
杉本氏が建設した江之浦測候所は原始的な天体観測装置としての隧道(ずいどう)、能舞台や作品展示ギャラリー、茶室を備えた施設だが、神護景雲2年(768年)、常陸国の鹿島神宮からタケミカヅチノミコトが白鹿に乗って大和国御蓋山へ渡ったという鹿島立ちの際、ここに立ち寄ったという仮説を立て、春日社を勧請(かんじょう)した。
展示風景より、杉本博司『春日大宮暁図屏風』(2022)
神社の境内、敷地などを図解した参詣曼荼羅図というものがあるが、この写真を撮影した時、杉本氏の脳裏には春日宮曼荼羅図が浮かんでいたのだろうか。春日大社は中世以来変わりなくそこにあると確かめながら。本殿の千木(ちぎ)と鰹木(かつおぎ)の先端がわずかに見える。
収集した古美術品には春日信仰にまつわるものが多く、それを究めるように、杉本氏自らが設計した江之浦測候所敷地内、相模湾を背景に建つ場所に春日社社殿を建設。2022年3月27日甘橘山春日社に御霊を招魂するまでにいたった。タケミカヅチノミコトが鹿島から白鹿に乗り大和国御蓋山へ渡った途上にある。
『五髻文殊菩薩像』 鎌倉時代 公益財団法人小田原文化財団蔵 杉本博司撮影
振り返り咆哮(ほうこう)する獅子は蓮台を背負っていて、その台の上に乗っているのは『五髻文殊(ごけいもんじゅ)菩薩』。五髻の上に5つの円相が重ねられ、それぞれ仏が描かれている。これが春日五本地仏だとすると、この図は春日若宮文殊ということになる。鎌倉時代のこの像は近年アメリカで発見され、日本で修復されたものだという。
『春日若宮曼荼羅』 鎌倉時代 公益財団法人小田原文化財団蔵 杉本博司撮影
春日大社本殿に四柱の神々が祀られているが第三殿の天児屋根命、第四殿の比売神(ひめがみ)の御子神(みこがみ)が若宮神である。その春日若宮社だけを描いた珍しい『春日若宮曼荼羅』。春日山に満月が昇り、御蓋山の麓に若宮社はある。大鳥居近くには僧綱襟(そうごうえり)で香染(こうぞめ)の法服を着た高僧が文殊菩薩から巻物を受け取っている。
東大寺創建時、金堂の東西には高さ100m超の七重塔があった。東塔は平重衡(たいらのしげひら)の焼討ちに遭い、重源らが再建するも落雷で焼失。明治期に発掘されたこの礎石(そせき)は藤田男爵家の庭に据えられていた。
鎌倉時代の『五輪塔』。修験道の霊場として知られる大分県国東半島から来た。五輪塔のなかでも大型の塔で、軟石の岩肌は苔むしている。
『内山永久寺十三重塔』。鎌倉時代。この寺は廃は仏毀釈(いぶつきしゃく)により破壊され廃寺になった。この塔は近隣の豪族の家に移設されて残っていた。
1945年8月6日、広島原爆投下時に爆心地近くにあった石造宝塔の塔身部分。屋根部分は熱線と放射能により瞬時に破壊された。
江之浦測候所内のこの建物はこの地のみかん栽培が活況を呈していた頃に建てられた道具小屋だった。それを展示室として整備して、化石のコレクションを展示する化石窟とした。小屋に残されていたみかん栽培のための各種道具とともに展示。大小多様な化石があるが、およそ5億年前に海底で生命が発生した頃の様子がわかる。
【特集 アート2023】