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2024.10.29
耳の聴こえない母の喋り方を笑われてしまった日
ろうの両親の元に生まれ「コーダ(聴こえる子ども)」として育った、作家でありエッセイストである五十嵐大さん。小さな港町で家族に愛され健やかに育つも、やがて自分が世間からは「障害者の子」と見られていることに気づき──。誰も知らない場所でふつうに生きたいと、逃げるように向かった東京で五十嵐さんが知った本当の幸せとは? 『ぼくが生きてる、ふたつの世界』から一部を抜粋して紹介します。 ※画像はイメージです
生まれつき耳が聴こえない母は、音を知らない。そのため、日本語をうまく発音することができない。よく勘違いされるのだけれど、聴覚障害者は発声ができないわけではない。面白いことがあれば声を立てて笑うし、驚いた瞬間には大きな悲鳴もあげる。手話で会話をしていても、喉の奥から唸るような声を出すこともある。ただし、その発音が聴者とは異なるため、変に聞こえてしまうことがある。
でも、それが“変”だとは知らなかった。
小学三年生になり、初めてのクラス替えがあった。ひとりっ子で甘やかされて育ったぼくは、とても引っ込み思案で恥ずかしがり屋の子どもだったため、うまく友達をつくることができなかった。だから、せっかく仲良くなったクラスメイトたちと離れ離れになってしまうことが怖かった。
そんなとき、母はいつも「大丈夫だよ」と背中を押してくれた。揃えた右手の指先を左胸に当て、それをゆっくり右胸へと動かす。これが「大丈夫」という意味の手話だ。
不安になっていると、母はこの手話を見せてくれる。ぼくもそれを真似る。この「大丈夫」は、合言葉になっていた。
母に応援されたおかげもあり、新しいクラスでも何人かの友達をつくることができた。そのうちのひとり、Yくんとは特に仲良しだった。ぼくとは異なりとても活発なタイプで、ドッジボールが得意なクラスの人気者。そんなYくんに憧れを抱いていたし、地味で大人しいぼくと仲良くしてくれていることがとてもうれしかった。
ある日の帰り道、一緒に帰っていたYくんが唐突に言った。
「今日、大ちゃんちに遊びに行ってもいい?」
Yくんにそんなことを言われると思っていなかったので突然のことに驚きつつも、喜んで頷いた。
「うん! 大丈夫!」
「じゃあ、うちに寄ってランドセル置いてから行こう!」
自宅までの道を、Yくんとはしゃぎながら歩いた。最近買ったゲームの話でひとしきり盛り上がり、一緒にプレイすることになった。近所の子たちと遊ぶことはあっても、少し離れた場所に住む子と遊ぶのは初めてだったため、若干緊張する。それでも、夕飯の時間までたっぷり遊べることが堪らなくうれしくて仕方なかった。
寄り道をしながら自宅に着くと、母がぼくとYくんを出迎えてくれた。まさか友達を連れてくるなんて思っていなかったのだろう、母は少し驚いて目を丸くしている。慌てて手話で説明をした。
──友達、連れてきたの。遊んでもいい?
後ろからYくんの元気な声も響く。
「こんにちは!」
状況を把握した母はすぐさま相好(そうごう)を崩す。そして、口を大きく開きながら、口話で言った。
「おういあね」
よく来たね。母はそう言ったつもりだったのだろう。けれど、うまく発音ができないため、はっきりした言葉にはならず、その場にくぐもった音だけが響いた。それはいつものことだ。ぼくはなにも気にせず、Yくんと二階に上がった。
しばらくゲームに熱中していると、母がおやつを持ってきてくれた。お盆にジュースと煎餅が並んでいる。
それに気づいたYくんが「ありがとうございます」と頭を下げた。母はうれしそうに笑って続けた。
「おうど」
どうぞ。これもまた、不明瞭な響きを持って響く。そうして母が下に降りていった後、Yくんが笑いながら言った。
「なんかさ、お前んちの母ちゃん、喋り方おかしくない?」
「……え?」
「さっきもそうだったけど、喋り方変だよな?」
そう言って、Yくんはクスクス笑っている。それに対し、言葉が出なかった。顔が熱い。鏡を見なくても、真っ赤になっているのがわかる。
母の喋り方は、おかしい。それをまさかYくんに指摘されるなんて。
耳が聴こえないから、仕方ないんだよ。本当はそう言えばよかったのかもしれない。でも、なにも言えなかった。母の耳が聴こえないことを説明したとして、彼女の喋り方がおかしいことに変わりはない。むしろ、触れてほしくない傷痕をさらけ出すようで、途端に怖くなってしまった。
結局、「そうかなぁ」と誤魔化して、その場をやり過ごした。
Yくんが帰った後、ゲームを片付けているぼくに、母が尋ねた。
──新しい友達? 楽しかった?
引っ込み思案の息子に新しい友達ができたのだ。母としてもうれしいことなのだろう。その目は喜びに満ちているように見えた。
──うん、楽しかったよ。
──また呼んだらいいよ。次はちゃんとしたおやつ用意するからね。
母の言葉に頷く。でも、もう二度とYくんを呼ぶことはないだろうと思っていた。母の喋り方を笑ったYくんと、どうやって仲良くしたらいいのかわからなかった。
ただ、Yくんを責める気にもなれなかった。なにも事情を知らないのだ。Yくんが抱いた違和感を責めることなんてできない。
じゃあ、一体誰が悪いんだろう。ぼくの目線の先では、母がいつまでもニコニコしていた。
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