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2024.10.28

“聴こえる子ども”だった作家が生まれて初めて感じた「母が“聴こえない”こと」の意味

ろうの両親の元に生まれ「コーダ(聴こえる子ども)」として育った、作家でありエッセイストである五十嵐大さん。小さな港町で家族に愛され健やかに育つも、やがて自分が世間からは「障害者の子」と見られていることに気づく──。誰も知らない場所でふつうに生きたいと、逃げるように向かった東京で五十嵐さんが知った本当の幸せとは? ぼくが生きてる、ふたつの世界』から一部を抜粋して紹介します。 ※画像はイメージです

弱音は吐かないものの決して気が強いわけでもなく、むしろ他人よりも気弱な母には、それでもなんでも自分ひとりでやってしまおうとするところがあった。もしかしたらそれは、祖父母の教育が関係していたのかもしれない。彼らは聴こえない母を「聴こえるようにしよう」と一生懸命だったらしい。ぼくが生まれる前、母が子どもだった頃は、いまよりも聴覚障害者への理解が進んでおらず、聴こえないことは努力次第で“治る”と勘違いする人もいた。

でも、それは無理なことだ。障害は、治るものではない。

けれど、そんな教育を受けてきた母は、なるべく周囲に迷惑をかけないように、と考える人だった。だから、困っていても口にしない。気軽にSOSを出さず、なんとかして自分で解決しようとしてしまう。

それでも、努力だけではどうしたってカバーできないことがあった。それは“音”にまつわることだ。

たとえば、母は電話に対応することができない。あるいは、来客があったとき、相手の話を聴き取ることができない。耳が聴こえないのだから、それは仕方ないことだろう。

だからこそ、母の代わりにそれらに対応することが、幼いぼくの役割だった。ただ、祖父母や父、そして母本人からも「代わりにやってね」と言われたことは一度もない。母を守りたい一心で、自発的にやっていたことだ。

そもそも、両親はぼくが生まれた後、祖父母から「心配だから」と説得され、同居することになったという。祖父母も聴こえない夫婦がどのように子育てをしていくのか、壁にぶつからないのか、なによりも聴こえる子どもにどうやって言葉を教えるのか祖父母も不安だったのだろう。気づいた頃には、ぼくは両親と祖父母に囲まれて生活をしていた。

電話や来客に対応するのは、もっぱら祖母の役目だった。もともとお喋り好きということもあって、電話が鳴れば瞬時に取るし、お客さんが遊びに来れば玄関先で延々と話している。ぼくはそんな光景を見て育った。

けれど、祖母も常に家にいるわけではない。友人が多い彼女は、しょっちゅう家を留守にする。祖父は祖父で仕事をしていたため、いないことが多い。父も仕事に一生懸命だった。そうなると、家にいるのはぼくと母のふたりだけ。そんな状況でぼくが電話に出たり、来客の対応をしたりするようになっていったのは、すごく自然なことだった。

リビングでけたたましく電話が鳴ったら、「もしもし、五十嵐でございます」と受ける。その言い回しは祖母のものだ。まさか幼いぼくに電話対応をさせようだなんて考えてもいなかった祖母は、受け答えについてきちんとぼくに教えたことがない。でも、ぼくは祖母の様子を見てそれを学び取り、いつの間にか一丁前に対応できるようになっていた。

すると、電話口の人がクスクス笑いながら、「大ちゃん、おばあちゃんそっくりね。偉いねぇ」などと言う。たしかにまだ幼稚園に通っているような子どもが“おばあちゃん言葉”で受け答えする様子は微笑ましいし、ちょっと面白いだろう。そう褒められるたびに気をよくし、率先して対応するようになっていった。

一方で、そうやって電話にも出られるようになり、来客時もわけがわからないまま相手の話に耳を傾けるようになっていくと、それができない母が“ふつうではない”のだと認識するようにもなった。

あるとき、こんなことがあった。
いつものように母とふたりでテレビを見ていると、インターフォンが鳴った。

──誰か来たみたい。

来客があったことを母に伝え、玄関に向かう。

そこにいたのは、なにかの営業職の人だったと記憶している。スーツを着た大人の男性がニコニコしながら立っていて、「お父さんかお母さんはいる?」と訊いてきた。そして、遅れてやってきた母を認めると、一方的に話しはじめた。もちろん、母にはその内容が理解できない。

「あの……お母さん、耳が聴こえないんです」

そう告げると、その人は少し驚いた顔をして、パンフレットと書類のようなものを差し出した。そしてひとこと簡単な説明を添え、こう言ったのだ。

「お母さんに見てもらいたいんだけど、これ、意味わかるかなぁ?」

母は耳が聴こえないだけで、日本語を読むことはできる。ただし、彼女はうまく日本語の文章を理解できないところがあった。それははっきり言えば、祖父母の教育のせいだ。彼らは母の聴覚障害が治るものだと信じ、彼女を聴覚障害者が通うろう学校ではなく、聴者が通う小学校に入れた。そこでの授業は日本語の音声で行われる。聴こえない母はその内容を理解することができず、結果として、日本語がわからないまま育った。

高学年になってもきちんとした日本語が書けない母を見かねた祖父母は、諦(あきら)めて彼女をろう学校に入れた。そこで手話を身につけた母は、ようやくコミュニケーションの手段を覚えていった。

だから、母の第一言語はあくまでも手話である。とはいえ、日本語の文章がまったく理解できないわけではない。ニュアンスをうまく汲み取れないことはあるものの、そこに書かれていることがわからないわけではないのだ。“秘密の手紙交換”だってできていたのだし。

それなのに、どうしてこんなことを言われなくちゃいけないのだろう。母のことをまるで“馬鹿な人”のように扱われたことが、とてもショックだった。

聴こえない母は、彼が発した言葉の意味もわからないまま、パンフレットを笑顔で受け取った。その瞬間、彼はホッとした表情を浮かべ、そそくさと出て行ってしまった。

静かになった玄関先で、母が促す。

──さぁ、行こう?
──うん。

再び母がテレビに目を向ける。どこまで理解できているのかわからないけれど、母は楽しそうに目を細めている。

全然楽しくなかった。もしかしたら、母が“聴こえない”ことは想像以上に大きな意味を持っているのかもしれない。生まれて初めて、そう思った。

ぼくはなんだか暗い気持ちになって、チカチカするテレビ画面をぼんやり眺めた。

この記事は幻冬舎plusからの転載です。
連載:ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと
五十嵐大

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