かつて共に「ドーハ」で戦い、残り数秒で夢を砕かれた戦友・森保一。彼が率いる日本代表は、いまや世界の強豪国を次々と撃破し、ベスト8の壁を突き破ろうとする存在となった。中山雅史は、かつてのチームメイトが築き上げたチームをどう見ているのか。自身が追求し続けた「泥臭さ」と、今の代表が持つ「洗練された強さ」。そして、今なお現役を掲げ、メンテナンスを続ける中山自身の、120歳まで続くという驚異のビジョンについて。最終回。【特集 2026FIFAワールドカップ】

森保監督の誠実さが変えた、日本代表の世界の立ち位置
中山雅史にとって、森保一監督は気心の知れた仲間である。1993年の代表において、中盤の底でひたすら汗をかき、ラモス瑠偉や三浦知良といった個性派を支え続けた森保の姿は、今の監督としての采配にも重なって見えるという。派手さはないが、誠実に、着実に仕事をこなす。その「水を運ぶ人」としての精神が、今の代表チームの基盤となっている。
「森保監督は、現役時代から本当に真面目で、チームのために自分を犠牲にできる選手でした。その『誠実さ』が今の代表チームの強固な結束力に繋がっているのではないでしょうか。ドイツやスペインといった優勝経験国を倒す姿を見て、私たちが夢見ていた『世界との差』が確実に縮まっていることを実感します。
彼は選手の声をよく聞き、それでいて締めるところは締める。そのバランスが、今の多種多様な海外組を一つにまとめているのでしょう。ドーハで共に悔しい思いをした彼が、今、監督として新しい歴史を作っていることに、深い感慨を覚えます」

今の代表は、かつての「守ってカウンター」一辺倒ではなく、主体的にボールを保持し、相手を崩す力も備えている。森保監督は、日本の伝統的な粘り強さと、現代サッカーの戦術を高いレベルで融合させている。中山は、そのプロセスに森保監督らしい、周囲への細やかな配慮と、揺るぎない信念を感じ取っている。
気心の知れた友の素顔。寡黙な男の揺るがぬ信念
1993年10月。アメリカワールドカップ・アジア最終予選は、カタールでの集中開催であった。宿舎のリラックスルームには、中山の他に福田正博、井原正巳、そして森保という気心の知れた4人が常に顔を揃えていた。そこで他愛もない会話に興じることで、極限の緊張を解きほぐしていた。
「今の代表のように個人で過ごせるアイテムがなかったため、みんなで雑誌を読んだり、日本から届いたファックスを眺めたりして馬鹿話をしていたのです。福田さんがお喋りで、私が突っ込んだり文句を言ったりするという構図でした。ポイチ(森保)は、そんな私たちの様子をニコニコしながら見守っていましたし、時には福田さんだけに攻撃していましたね」
森保が日本代表に招集されるまで一切の接点がなく、どんなプレーヤーなのか知らなかった中山は、最初に森保の剛胆さに度肝を抜かれ、そこから一気に仲良くなっていた。
「ポイチは真面目ですが、自分のプレーに疑いを持っていない堂々とした選手でした。初めて招集されたアルゼンチン戦の直前、私が『大丈夫か』と声をかけると、『全然平気です、行きましょう』と不安な様子を一切見せませんでした。試合が始まってみると、浮わついて消極的になっていたのは私の方でしたね」

1967年9月23日静岡県生まれ。藤枝東高校から筑波大学を経て、1990年にヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)に加入。1992年に日本代表デビュー。1993年の「ドーハの悲劇」を経験し、1998年フランスW杯、2002年日韓W杯に出場。フランス大会では日本代表のW杯初得点を記録した。国際Aマッチ通算53試合21得点。Jリーグでは1998年、2000年に得点王。その魂のこもったプレースタイルと明るいキャラクターで、日本サッカー界を象徴する存在として知られる。
指導者となった森保監督を、中山は「優しいだけじゃない。言うべきことはしっかりと言う、コントロールのできる指揮官」と評する。その勝負に対する厳しさが、カタールで「死の組」を突破するという結末をもたらした。
かつてその地で断絶させられたアメリカへの夢。33年の時を経て、森保監督の手によって、再びアメリカで開催されるワールドカップでの希望が生まれている。ドーハの悲劇の当事者たちが抱き続けてきた悔恨は、いま、一つの結実を迎えようとしている。
引退宣言を口にせず、120歳まで追い続ける夢
中山は今もなお、「引退」という言葉を口にしない。選手としても、そして指導者としても、サッカーという競技に対して異常なまでの情熱を燃やし続けている。膝に慢性的な痛みを抱えながらも、肉体への峻烈な負荷を自らに課し続けている。その情熱の源泉は、どこにあるのか。中山の言葉からは、老いに対する恐怖ではなく、生への執着に近いエネルギーが溢れ出す。
「現役を退く(引退)という二文字は口にしていません。求められる場所があれば全力で引き受けますし、結果が出なければ自分の力不足として受け止めるだけです。カズ(三浦知良)さんがまだやっている以上、私もその二文字は言いません。本当はトレーニングなんてしたくない。でも、やらなければ自分の身がおかしくなり、歩けなくなる。安心感を得るためにやっている側面もあり、それはマイナスなのかもしれないと思うこともあります。しかし、それが習慣になっている」
そうやっていつまでも闘う姿は、みんなの記憶に残っている1993年ドーハでのワールドカップ・アジア最終予選で見せたイラン戦での諦めないゴール、1997年のワールドカップ・アジア最終予選の崖っぷちで得点を生んだ、カザフスタン戦での相手ごと弾き飛ばしたヘディングシュート、そして倒れ込みながら押し込んだ日本のワールドカップ初得点と何ら変わっていない。そんな中山の今後のビジョンは何だろうか。

「私のビジョンは、最終的には安定した老後を過ごすこと(笑)。でも、120歳まで生きて、インタビューされた時に『今の夢は何ですか』と聞かれたら、『年上の女性と付き合うことです』と答えたい。メンテナンスを続け、自分の足で歩き続けたい。それが私の今の戦いです」
そうやって中山はまた人々を和ませた。中山の挑戦は、サッカーのピッチだけにとどまらない。人間の限界をどこまで押し広げられるか。衰えを受け入れるのではなく、抗い、手入れをし、一歩でも先へ進もうとする。その姿は、現役時代にゴールへ向かってがむしゃらに突進していた中山雅史そのものである。120歳の夢を語るその目は、ドーハの悲劇も、フランスの初ゴールも、全てを血肉に変えた男の、揺るぎない光を宿している。

