岐阜県で70余年続く衣料プリント会社、坂口捺染代表取締役の坂口輝光氏。2014年に3代目を継ぐや否や大胆な改革を次々と実行し、典型的な町工場からTシャツプリント全国トップクラスの有力企業に押し上げた“岐阜の名物社長”の経営術を紐解く。【その他の記事はこちら】

残業100時間超え解消。きっかけは「従業員が辛そうだから」
創業1953年、シルクスクリーンプリントをメインにしたプリント会社・坂口捺染。2025年度の年商は約11億円を見込み、従業員数250名以上を抱える企業の三代目社長、坂口輝光氏は“岐阜で最も有名な社長”としてメディアからも注目されている。
まず目を引くのは、そのビジュアル。派手なビンテージファッションとクロムハーツなどを重ねづけしたアクセサリーに身を包み、金髪に髭面、サングラスがトレードマークと、世にいう社長像からは程遠い。飾り気のない岐阜弁から繰り出されるフランクな物言いもあいまって、一度会ったら忘れられないほど強烈な個性を放つ持ち主である。
しかし坂口氏がメディアで注目を集めているのは、こうしたクセ強なビジュアルだけが理由ではない。入社当時は約5000万円、社長就任時には約3億4000万円だった年商を10億円超えまで成長させ、出退勤時間は従業員が独自に決めるといった斬新な働き方改革により、ここ10年で従業員数を10数人から250名まで増やすなどの経営手腕が高く評価されてのことだ。

1982年岐阜県生まれ。岐阜商業高等学校卒業後、単身アメリカに留学。パサデナシティカレッジ卒業後に帰国し、2004年、家業である坂口捺染に入社。2010年に専務、2014年に社長に就任。ラジオ『T.W.R presents ゆっこ学園 Tell me tours ~輝光との旅~』(ぎふチャン)のパーソナリティも務める。
坂口氏の祖父が創業した坂口捺染は、着物の染めを手掛ける会社としてスタートし、父の代で、アパレル商社の下請けとしてTシャツや肌着などのプリント加工業に転身。坂口氏が入社した当時は従業員数14名で、ほとんどがプリントの職人という典型的な町工場だった。
当時は冬物衣料を扱っていなかったため、仕事は3、4、5月に集中し、残り9ヵ月はほぼ開店休業状態。繁忙期の3ヵ月間で1年分の売り上げを立てなければならなかったため、無理な注文にも応じていた結果、残業せざるを得ない状況が常態化していた。月の残業時間100時間以上というのも珍しくなかったという。
「従業員たちは、繁忙期の3ヵ月間は残業代で稼げるけれど、残り9ヵ月は最低限の給与を受け取って休んでいるような感じでしたね。3ヵ月限定ではあるものの労働時間が長くて、収入は不安定、おまけに染料を扱う職場だから、臭いし、暑い。働く人にとっても、会社にとっても、課題だらけでした」
もっとも坂口氏が働き方改革に打って出たのは、創業一族として課題を解決しなければならないという使命感によるものではなかった。「夜中まで働いていたら朝起きるのは辛い。残業を減らせば、みんなが楽になるんじゃないか」という、ごくシンプルな発想からだったという。
「うちの両親は従業員をはじめ、周りの人に奉仕する精神が強いんですよ。子供の頃からそれを見てきているので、会社にとってではなく、一緒に働いている人たちにとってプラスになるのは何かを、一番に考えました。
自分も現場で働きながら、ひとりの職人が最初から最後まで手掛けていた作業を分業化したり、業務内容ごとにリーダーを置くことで生産管理を徹底したりと、いろいろ試しました。職人はプロ意識が強いので分業化に対する反発もあったし、残業代が基本給の倍以上あったから『残業させろ』という声もあがったけれど、何とか理解してもらおうと、ひとりひとりとじっくり話し合い推し進めた感じです。それがある程度形になった頃、ちょうど専務に就任したこともあって販路の拡大にも乗り出しました」

30着のクラスTシャツでも学校全体なら1万着
当時の坂口捺染の取引先は岐阜県内にあるアパレル商社3社のみ。積極的な営業活動は行っておらず、3社から受注したものをこなすというスタイルだった。それが、仕事が3月〜5月までと限定されていた最大の理由だ。
そこで、坂口氏は年間の仕事量を平準化すべく、6月〜2月に発生するアパレル業界以外のプリント業務に的を絞り、営業をスタート。目を付けたのは、夏や冬に開かれる音楽フェスに、テーマパークや水族館などのオリジナルグッズ、文化祭や体育祭などで着用するクラスTシャツといった学校関連だった。
「クラスTシャツはクラスごとにデザインが違うので、発注数はせいぜい30~40枚程度。小口ではあるけれど、1学年10クラスなら3学年で合計1万枚前後になります。文化祭と体育祭の時期はずれているし、マラソン大会でクラスTシャツをつくる学校もありますからね。これを受注できれば、けっこうデカイんじゃないかなと」
坂口氏はアメリカの大学卒業後すぐに家業に従事したため、営業経験は皆無。それでも同業者からも情報を収集し、仕事の発注をしてくれそうな所であればどこにでも出かけた。金髪にサングラス姿で、だ。
「その頃はネイルもしていて、今よりもっと派手でしたね(笑)。その恰好で行くから、担当者に『なんじゃコイツは⁉』って引かれていました。
人が受ける印象って、見た目が9割って言いますよね。営業はスーツが基本だから、オレみたいな服装だと覚えてはもらえるけれど、与えるのはプラスじゃなくてマイナスの印象。人の3倍、4倍努力しないと認めてもらえないなと思っていました。だから、当時は睡眠時間は3時間で休みもとらず、一年中仕事をしていましたね。イヤな顔されても、次の日もまた営業に出向いたりして」

その営業方法も“坂口流”を徹底。相手先では、「納期は必ず守る」「どんな仕事も引き受ける」といった自社の強み以上に、従業員のすばらしさをアピールしたのだ。
「仕事は『ください』と頼み込んだからといって、もらえるものじゃない。なので、面談中ずっと、従業員の話ばかりしていました。夜中1時、2時まで仕事をして、次の日朝7時出勤でもみんなアホみたいに笑っているんですって。『そんなの嘘やろ』『いや、ホントです』『そんな会社聞いたことがない』『一度ウチに来て、確かめてください』『じゃあ行ってみるか』となって実際来てもらうと、みんな驚くんですよ。従業員がみんな笑顔で、めちゃめちゃ挨拶するから。で、『試しにお願いしてもようか』と発注してもらえる。
そうなれば納期は絶対に守るし、品質はいいし、安いから、必ずリピートにつながるんですよ。そのうち、『坂口さんに頼めば安心』と口コミで広がって、取引先が増えていきました。今は東京を中心に、学校などのエンドユーザーまで含めたら10万社くらいあるんじゃないかな」
坂口氏は3年間かけて取引先を開拓し、月々の売り上げが均等に立つようになったところで社長に就任。次なる改革に着手する。

