世界中で愛されている不朽の名作漫画『北斗の拳』。1983年の連載開始から40周年を迎えた今も人気は衰えることなく、六本木・森アーツセンターギャラリーで開催中の「北斗の拳40周年大原画展 ~愛をとりもどせ‼~」は大盛況となっている。ゲーテwebでは、その漫画担当である原哲夫にインタビューを敢行。40年前の連載当時の様子や仕事哲学に至るまで、原の壮絶な漫画人生を4回に分けてお届けする。第1回のテーマは『北斗の拳』誕生の物語。【別の回を読む】
カンフー漫画を描きたかった
199X年、世界は核の炎につつまれ、あらゆる生命体が絶滅したかに見えた。だが人類は生き残り、世は再び暴力が支配する時代へ。そんな激動の時代に暗殺拳・北斗神拳第64代目伝承者である主人公ケンシロウは、奪われた恋人ユリアを取り戻すためにライバルたちと邂逅。時には死闘を繰り広げ、時には友情を育みながら波乱の時代を生き抜いていった。
1980年代を代表する名作として愛され続け、今なお世界中で新しいファンを獲得し続けている漫画『北斗の拳』。漫画を担当した原哲夫は、連載開始時の様子をこう振り返る。
「21歳の時に週刊少年ジャンプで、『鉄のドンキホーテ』という漫画で連載デビュー。でも、人気が出なかったんです。連載は10回まで続きましたが、担当編集者の堀江信彦さん(注:1979年集英社に入社。『北斗の拳』をはじめ数多くのヒット作を手がけ、1993年に週刊少年ジャンプ編集長に就任)に後で聞いたら、2話目で打ち切りが決まっていたそう。ちょうどその『鉄のドンキホーテ』の6話を描いていた時に、堀江さんがおもしろいアイデアを持ってきてくれた。
僕は中学生の頃からブルース・リーと松田優作さんのファンで、常々カンフー漫画をやりたいって言っていた。で、堀江さんはその話を覚えていてくれて、こう切り出したんですよ。『新しくカンフー漫画をやろう』って。『経絡秘孔を突いたら、人は爆発するっていう話、どう?』って言い出した」
経絡秘孔とは『北斗の拳』を語るうえで欠かせない要素のひとつ。経絡秘孔は肉体に散在するツボで、ここを突かれると人間は肉体内部から破壊されてしまう。
「初めは『堀江さん、何言っているんだろう』って思いましたよ(笑)。でも、ずっと描きたいと思っていたカンフー漫画をやれるなら、なんとかできるかもって考えた。秘孔を突かれた敵は、初めは突かれたことに気づかない。でも、少し時間が経った後に痛みが襲ってきて、驚きながら死んでいく。そんな演出ができあがりました」
当時、原は若手の漫画家。編集者の堀江も20代の新米編集者だった。人気絶頂の漫画誌・週刊少年ジャンプで簡単にチャンスをもらえる状況ではなかった。
「初連載『鉄のドンキホーテ』がコケて、ダメな漫画家の烙印を押されていた。だから、初めは1回限りの読み切りということで、『北斗の拳』を描かせてもらったんです。ジャンプ系列のフレッシュジャンプという雑誌に掲載され、読者アンケートで1位を獲得。それでも連載のチャンスはもらえずに、もう1回、読み切りを描いた。これも読者アンケートで1位になり、やっと連載がスタートすることになりました」
原作者・武論尊とはほぼ会ったことがない
連載開始にあたり、新たに原作者を迎えることになった。『ドーベルマン刑事』などのヒット作で知られる漫画原作者・武論尊だ。
「僕はストーリーを描くのが下手だし、編集部にもそう思われていた。そこで、原作者として武論尊先生が選ばれたわけです。僕は当時22歳で世間知らずの生意気盛りだったから、13歳も年上の武論尊先生に『北斗の拳の世界が理解できるの?』って思った。本当に生意気でしたね(笑)。でも原作を読んでみると、いいんですよ。武論尊先生はセリフで泣かせるのがうまいんですよね」
原作者・武論尊と漫画家・原哲夫。制作現場では2人が議論を重ね、『北斗の拳』が作り上げられていったと思いそうなところだが、実はそうではない。連載中、2人はほとんど顔を合わせることがなかったという。
「原作者と漫画家が顔を合わせるとロクなことがないと、編集部はよく知っているんです。すぐに喧嘩が始まってしまいますから。僕の元に届くのは原稿だけ。武論尊先生と実際にお会いするのは、受賞パーティの会場とか、そういう場だけでしたね」
結局は楽しいから描き続けられた
1983年9月13日、週刊少年ジャンプ41号にて『北斗の拳』の連載がスタート。魅力的なキャラクターと圧倒的な画力は瞬く間に人々を魅了。コミックスの世界累計発行部数は1億部を突破し、日本とハリウッドで実写映画が制作された。
アメリカの金融会社TITLEMAXが2019年に発表したゲームやグッズなどを含めた『北斗の拳』総収益は218億ドルで、日本円に換算すると約2兆9000億円に上る。それだけの人気作を週刊誌に描いていたのだから、当時はさぞかし忙しかったに違いない。原に聞くと、その答えは想像を超えるものだった。
「椅子に座ったまま眠りに落ち、最終的には床で死んだように眠っていた。そんな生活が毎日続き、連載中に布団で寝た記憶はほとんどないですね(笑)。風呂は1週間に一度入れるかどうか。連載中は1日15~20時間は働いていたので、足腰が弱って階段を上れない。たまに外出すると30分も歩くと疲れてしまうんですよ。
そういう生活を続けているうちに、自分が現実世界に存在していないような気になってきた。アシスタントの目に、僕が映っていない。僕が彼らに話しかけると、『あれ、いたんですか』と言われてしまう。僕は現実から消えて、漫画を描く紙の上で生きている。まあ、そんな気分になるくらい、ただ必死に『北斗の拳』を描いていたということです」
そこまで原を漫画にのめり込ませたもの。それはいったい何だったのだろうか。
「まずは、もう失敗できないという思いですね。『鉄のドンキホーテ』で大コケ。次回作の『北斗の拳』もコケたら、漫画家人生は終わってしまう。僕は漫画を描くことしかできない人間。まだ20代なのに、仕事がなくなったらもう生きていけない。だから必死に描いたんですよ。
それと紙に向かう前は、『もう描きたくない』っていう思いしかない。でも苦しみに耐え続け、いろいろなことを考え続けて、そこを抜けた場所には快楽がある。描き込んでいくとキャラクターに『ああ、魂が宿ってきたな』って感じる瞬間があって、その瞬間がたまらないんですよ。だから、描く。それが僕という漫画家なのでしょうね」
※次回に続く
原哲夫/Tetsuo Hara
1961年東京都生まれ。1982年に週刊少年ジャンプ(集英社)にて『鉄のドンキホーテ』で連載デビュー。1983年、原作に武論尊を迎えて『北斗の拳』を連載開始。自身最大のヒット作となる。1990年には隆慶一郎の小説をもとに『花の慶次~雲のかなたに~』を、2001年には週刊コミックバンチ(新潮社)にて『北斗の拳』の過去の時代を描く『蒼天の拳』を連載した。