孫正義氏の右腕としてソフトバンクの数々の一大事業を手がけてきた、英語コーチングスクール「トライズ」社長の三木雄信氏は現在、世界のビジネスエリートが集う「EMBA」で“学び直し”を実践中。MBAのさらに上をいく、企業のトップ候補が集うプログラムとは!? 世界のスーパーエリート達の脳内がわかる連載3回目。

MBAの“さらに上”の授業でエリート達が学んでいること
UCLA-NUS EMBAの私の経験を語る連載第2回となりますが、今回は2025年5月に行われたシンガポール国立大学での「マネージャーのための経済分析」という授業の内容をご紹介すると同時に、そこでの学びがどのように実務で役立つかを「トランプ関税に関する日米交渉」を例に考えてみたいと思います。
「マネージャーのための経済分析」は、企業活動を経済学の視点から読み解く実践的な講義です。ミクロ経済学、産業組織論、ゲーム理論、行動経済学といった理論をベースに市場の仕組みや企業・消費者の行動を分析するものでした。
理論を用いたフレームワークだけでなく、実際のビジネス課題にどう応用できるかに重点が置かれており、経営判断の裏にある経済的直感とロジックを養うことを目的としています。
担当するのは、シンガポール国立大学(NUS)ビジネススクールの戦略・政策学科のジョー・スンギュ教授でした。アメリカのペンシルベニア大学で経済学の博士号を取得、ゲーム理論や産業組織論、国際貿易政策を専門に研究してきた教授です。
「経済学は楽しい」を合言葉に、軽妙な語り口で複雑な経済理論を現実のビジネス事例と結びつけて語る授業は圧倒的な説得力を持ち、学生たちからは敬愛を受ける存在です。しかし、学生からは「ジョーは口もとは笑っていても目は決して笑っていない」とか「ゲーム理論で生徒を操っている」などと恐れられてもいます。
授業では、カフェのセットメニューの価格設定、なぜ婚約指輪はダイヤモンドなのか、NFLなどスタジアムの席の価格政策など多くのケースが取り上げられます。そして、プレゼンテーションなども含めて学生が積極的に発言することで、活気ある授業が繰り広げられます。
ちなみに私は、プレゼンテーションで大失敗をしてしまい、穴があったら入りたいほどでした。とはいうものの、その授業は私の会社の経営にも直結する部分があり、マーケティングの基本戦略を抜本的に変えるきっかけになりました。
先にハンドルを切った側が“負け”のチキンレース
さて授業に倣ってここで、ケーススタディとして「トランプ関税に関する日米交渉」をゲーム理論のフレームワークで考えてみたいと思います。
ゲーム理論は、複数の意思決定者(プレイヤー)が互いの行動を考慮しながら最適な選択をする状況を分析する経済学の理論です。ビジネスや政治、日常の交渉など、利害が絡み合う場面での戦略的な意思決定を数学的にモデル化し、最適な行動や均衡と呼ばれる安定状態を考えます。
2025年7月7日、トランプ大統領は石破首相に宛てた書簡で、日本製品に対して8月1日から25%の「相互関税」を発動すると通告しました。
交渉期限は当初の7月9日から8月1日に延長され、トランプ大統領は、書簡の内容について「ほぼ最終的な提案だ」と述べる一方、「報復措置を取れば関税率をさらに引き上げる」「各国が別の方法を申し出てきた場合、われわれはオープンだ」と述べ、今後の交渉によっては修正もあり得ることを示唆しています。
さらに、9日にはトランプ大統領はSNSで、来月1日に延長した相互関税の一時停止の期限について、さらなる延長は認めない考えを示しました。
この構図は、ゲーム理論でよく知られる「チキンゲーム」の形に極めて近いものです。互いに崖に向かって車を走らせ、先にハンドルを切った側が「負け」とされる。両者が譲らなければ衝突という最悪の結果を招き、一方が引けば他方が勝者となります。
このチキンゲームには、もう一つ重要な論点があります。それが「脅しの信憑性」です。たとえば、一方のプレイヤーが「自分は絶対にハンドルを切らない」と脅したとしても、合理的に考えればそのプレイヤー自身も死ぬのですから、最終的には自分がハンドルを切るほうが得となります。そのため、そのような脅しは信じるに足りないと判断されてしまいます。
ゲーム理論を知ると合理的・戦略的に判断できる
では、どうすればその脅しに信憑性を持たせることができるのでしょうか。その答えが「ブレーキを壊す」という行動です。自分が後戻りできない状況にあると相手に信じさせることによって、「このままでは本当に衝突する」という共通認識が生まれ、相手に譲歩させるのです。
今回のトランプ氏の行動は、まさにこの「ブレーキを壊した」演出にあたります。関税の明言、報復関税へのさらなる高関税による報復の予告、そしてSNSでの交渉期限の明示。これらすべてが、「私はもう止まれない」と日本に思わせるための布石と見てよいでしょう。しかし、ゲーム理論的には両者が譲らなければ衝突という最悪の結果を招くことになりますから、プレイヤーの片方か両者かが譲る必要があります。
このようなことを考える時に、大事なことはトランプ大統領の立場です。トランプ大統領は「取引の達人(Deal-maker)」という自らのブランドを守り、支持者に「譲歩を引き出した」と語れる成果を示す必要があるのです。
ゲーム理論的に日本政府が注意すべき点は、トランプ大統領に出口を用意することです。相手が「勝ったように見える」着地案を設けることで、高関税を避ける余地が生まれます。象徴的な協力や表現の調整などがその一例です。本心ではトランプ大統領も、最終的にはアメリカ国民にとって負担となりかねない高関税という最悪の結果になることは望んではいないはずだからです。
2025年8月1日は、単なる関税発動の期日ではありません。トランプ氏の強硬姿勢の裏にある戦略を見抜き、冷静に対応する力が試される瞬間です。こうした複雑な交渉局面において、ゲーム理論の視点は、感情や印象に流されず、合理的かつ戦略的な判断を下すための有効な武器となると感じています。
このようにゲーム理論は外交やビジネスに活用できるものです。読者の皆さんもゲーム理論については解説書がたくさん出ています。一読することをおすすめします。

トライズ代表取締役社長。1972年福岡県生まれ。東京大学経済学部卒業後、三菱地所を経てソフトバンク入社。2000年ソフトバンク社長室長に。多くの重要案件を手がけた後、2015年に英語コーチングスクール「TORAIZ(トライズ)」を開始。日本の英語教育を抜本的に変えるミッションに挑む。