拠点を置く大阪の地で、“世界のANDO”が大規模な個展を開催中だ。半世紀を優に超える仕事を振り返る展示を構成するにあたって、掲げられたテーマはずばり「青春」。83歳の建築家がこの二文字に込めた思いとは、いかなるものなのか――。

「闘う建築家」の挑戦の軌跡をたどる
大阪駅北口に2024年誕生した「グラングリーン大阪・うめきた公園」内の施設、文化装置「ⅤS.(ヴイエス)」で、建築家・安藤忠雄の業績と思想を一望する大規模個展が始まっている。「安藤忠雄展 青春」だ。会場で当人の言葉を聞いた。
展示は大きくふたつのゾーンに分かれ、エントランスをくぐるとまずは「挑戦の軌跡」パートが出現する。個人の住宅から美術館など文化施設にいたるまで、安藤の代表作が模型やスケッチ、写真や資料類によって紹介されていく。初期の作例を眺めながら、安藤が自身の「建築ことはじめ」を開陳してくれた。
「私は専門教育も受けず建築を始めました。最初に建築に興味をもったのは中学時代、生家の木造平屋建てを改築した時です。若い大工がひとり、昼飯もとらず一心不乱に、実に楽しそうに働いていた。この記憶がずっと残っていて、後に進路を決める時、建築を目指すことにしました。しかし、大学進学は学力と経済力不足でかなわず、アルバイトしながらの独学の道を選びます。幸いに生まれ育った大阪は、京都にも奈良にも近い。日本の伝統建築をじっくりと、実地で学ぶことができました。
また20代の頃には、世界の建築を巡るひとり旅にも出ました。シベリア鉄道に乗ってレニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)からフィンランドへ。欧州各地を見てマルセイユからアフリカへ渡り、ケープタウンまで。さらにマダガスカル島を経由し、10ヵ月余りで帰国しました。世界中にはさまざまな生活があった。けれど皆同じ人間同士、地球はひとつだという真理を体感しました。人間が自然の一部であり、環境は守るべきものということも身体で理解しました。そうした気づきが、私の建築の原点をかたちづくっていくこととなりました」
帰国後の1969年には、安藤忠雄建築研究所を設立した。「これが初期の仕事のひとつです」と模型を指し示したのは、住宅「住吉の長屋」だ。
「コンクリート打ち放しのコートハウス、中央3分の1を屋根のない中庭としたため、雨の日は傘をさしてトイレへ行かねばならない。『なんて住みにくい家だ』と批判もされましたが、中庭に出て上を向けば、自分だけの空がある。『人間の魂が棲みつけるのは、自然とともに生きる住まい』と信じ、命がけの覚悟で挑んだ建築でした。クライアントはそんな私の思想に共感してくれて、今も変わらずこの家で暮らしています」
その後もひとつひとつの建築に体当たりで挑み、ʼ80年代には「小篠邸」「六甲の集合住宅」「光の教会」など、不朽の名作が次々と実現した。
’90年代に入ると、美術館や博物館など公共文化施設の設計も多数手がけることとなる。会場で歩を進めるたび、壮大な挑戦の軌跡が目に飛びこんでくる。
「まあよくこれだけつくったなと、我ながら思います。もちろん私ひとりの仕事ではありません。実績がないうちから『面白いじゃないか』とチャンスをくれたクライアント、無理難題にも心意気で応えてくれた施工会社や職人たち、そして常に全力疾走するボスの横で歯を食いしばって伴走してくれた事務所のスタッフたち……。よき出会いと周囲の深い理解、サポートがあってこそ、遂げることができたのです」
会場の最奥部(さいおうぶ)には、暗がりの展示室がある。覗いてみると、初期の代表作「水の教会」の礼拝堂の情景が目に飛びこむ。
「せっかく展覧会に足を運んでくださったお客さんに『こんなの見たことない!』という驚きと感動を届けたかった。そこで、北海道につくった『水の教会』の礼拝堂を、1分の1で再現しました。空間そのものを感じてもらうため実際に水を張り、水上の十字架の向こうには現地で撮影した四季折々の映像を流しています」
静謐な空間に佇んでいると、見ている側の心中が澄んで敬虔(けいけん)な気分に染まっていく。その場に漂う空気感までが「水の教会」を忠実に再現したインスタレーションだ。

展示の後半は、天井の高い大空間に「安藤忠雄の現在」と題したゾーンが広がっている。真っ先に目を引くのは、「直島の一連のプロジェクト」を模型と映像、音楽のインスタレーションで展示するスペースだ。
安藤は1980年代から、ベネッセ福武總一郎氏の呼びかけに応じるかたちで、瀬戸内海の小島、直島を文化の砦とする「ベネッセアートサイト直島」の計画に関わってきた。37年を経ていまだ継続中の一大プロジェクトの軌跡を、ダイジェストで楽しむことができる。
「最初に福武さんから話を聞いた時は、さすがにそれは勝算がないだろうと反対しました。しかし福武さんは信念を貫き通し、かつての人口3000人の過疎の島は、今や世界中から年間70万人が訪れるアートの聖地のひとつになっています。福武さんの情熱にはただただ感服するばかりです。今年5月31日には私が直島でつくる10番目のアート施設『直島新美術館』がオープンします。毎回これで最後かと思うのですが、福武さんに言わせればまだまだ道半ば。この飽くなき挑戦心、決してあきらめない持続力が、不可能を可能にするのでしょうね」
いつまでも未熟な青リンゴたれ
2000年代に入って急増した海外での仕事も、本展に多数出品されている。パリの「ブルス・ドゥ・コメルス」やヴェネチアの「プンタ・デラ・ドガーナ」など、歴史的建造物の再生プロジェクトの模型は迫力十分だ。
近年とみに注力する社会貢献プロジェクトのあらましも紹介されている。とりわけ、自らの費用で児童図書施設を設計・建設し、地方自治体に寄附する「こども本の森」プロジェクトのインパクトは大きい。地元・大阪で「こども本の森 中之島」をオープンさせた後、国内外に展開、驚くべき広がりを見せている。
「子供が自由でいられる場をつくる、というのがコンセプト。子供が生き生きとしていない世界に、未来の希望などありませんから。こうした活動のプロジェクトの根幹にあるのは、建築家として私を育ててくれた社会に恩返しをしたいという気持ちなんです」
本展はタイトルに「青春」の二文字を掲げている。そこに込めた思いとはどんなものか。
「人生の本質は無我夢中で走っている、その瞬間にこそあります。アメリカの詩人サムエル・ウルマンの青春の詩を私に授けてくれたのは、ともに関西経済界の重鎮だったサントリーの佐治敬三さんと東洋紡績の宇野収さんでした。いわく『青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方をいう……頭を高く上げ希望の波を捉える限り、80歳であろうと人は青春のなかにいる』。だから生涯青春を生きるんだと。人生100年時代の今、よりいっそう、メッセージが心に刺さります。成熟した赤いリンゴではなく、未熟で酸っぱくとも、明日への希望と挑戦心に溢れた青リンゴたれ。私もまだまだ走り続けるつもりです」
気概に満ちた「安藤忠雄展 青春」は、勢い余って会場からはみ出し、屋外の芝生に飛びだしていく。そこに巨大な青リンゴのオブジェが置かれているのだ。
会場の「VS.」は、安藤も長年尽力した「うめきた」再開発プロジェクトの第二弾「グラングリーン大阪」の一角を占める。大阪駅の北口に出現したこの緑溢れる空間に、安藤スピリットのアイコンたる青リンゴが、圧倒的な存在感で佇んでいる。
「地域創生と言いますが、一番大切なのは、人と人とのつながりの強さ。『ここに行けば誰かいる』というようなコミュニティの核になれる場所が街の真ん中に生まれた。敷地の半分が公園という画期的なアイデアがそのまま実現して、たくさんの人が集い、子供たちが水辺を駆け回る姿を見ると感無量です。希望をかたちにしていく、それが半世紀以上変わらぬ私の『建築の流儀』です」
本展で安藤忠雄の仕事とその生き様に触れることは、誰の人生にも大いに「効く」に違いない。

1941年大阪府生まれ。独学で建築を学び、1969年に安藤忠雄建築研究所を設立。日本を代表する建築家として活躍する。代表作は「光の教会」「地中美術館」「フォートワース現代美術館(アメリカ)」「ブルス・ドゥ・コメルス(フランス)」など世界中に多数。環境運動、被災地支援など、社会的な活動にも精力的に取り組む。1997年より東京大学教授、2003年より同大学名誉教授を務め、2005年に同大学特別栄誉教授の終身称号を受ける。