2000年のプロデビュー後、数々の海外移籍やフットサルとサッカーの二刀流にも挑戦、2024年2月に23年のキャリアに幕を下ろした松井大輔のインタビューをまとめてお届け! ※2024年7月掲載記事を再編。
1.松井大輔「35歳からはずっと、自分らしい終わり方を探す旅だった」
――2024年2月20日に引退発表されました。
「やり切ったという想いがあり、ホッとしています。実は35歳くらいから、いつやめるのかという、タイミングをずっと考えてました。同世代がみんな引退していくなかで、自分のやめ方、終わり方を探していた、そんな旅のような気持ちでしょうか」
――引退までジュビロ磐田でプレーしてほしいとクラブからオファーがあったとか。
「当時の名波浩監督から、『やりたいところまで、ジュビロでプレーしてくれればいいから』と言ってもらえたんです」
――松井さんのタイミングで、ジュビロで引退してほしいということですね。
「ありがたかったです。移籍1年目(2014年)は試合に出られたけれど、J1昇格を逃してしまった。その後はなかなか先発では試合に絡めなくなったけれど、僕のことをリスペクトしてくれるチームメイトやスタッフ、サポーターの存在は力になりました。ジュビロ磐田というクラブ、クラブを取り巻く環境は本当に優しくて素晴らしいんですよ。それだけに、自分のなかで甘えが出ちゃうのはイヤだったんです。常に自分に厳しくありたいという想いがありました」
2.松井大輔「ドリブル特化の指導で、後世に残る選手育成を」横浜FCや浦和で異色コーチング
――年齢を重ねた松井選手は献身的な守備やバランサーとしての能力も長けた選手という印象がありますが、やはりドリブルは大きな武器だと感じます。子どものころから、ドリブルが好きだったのでしょうか?
「そうですね。ただ単にボールをずっと持ち続けていたかったので。試合でボールが持てる時間は限られているじゃないですか? 僕らは『キャプテン翼』世代です。ボールを持って、相手を抜いて、スルーパスを出す翼くんは本当にカッコよくて、翼くんを真似るのが流行っていた時代だったので、自然とそれにとりつかれていったという感じです」
――とはいえ、常に翼くんみたいにはできないですよね。
「もちろん。プロになってから毎日僕は躓いてましたよ。昨日はできた、でも今日はできない。この試合は良かったけど、次の試合はダメだったとか、ドリブラーは波があるので。ドリブルというのは、相手と対峙して、抜くか獲られるかの2択しかない。効率良く抜けるなんてそうそうないんです。三笘(薫)選手は効率良く抜けているけど、それはロジックがあるから。すごいと思いますよ」
――壁にぶつかりながら、重ねたキャリアだったんですね。
「やっぱり失敗しないと得るものってないと思うんです。成功ばかりだと、実はメンタル的には弱くなる。ドンと落とされたときに、這いあがれないから。毎日の練習で、試合で、失敗を重ねるわけじゃないですか? そのたびに怒鳴られる。でも、それが僕にとっては大事なことでした。今思えば、僕に関わってくれた監督は、そうやって失敗することも許してくれていた。
怒鳴られはするけれど、『ドリブラーなんだから、失敗することで怖気づくな』というメッセージがあったし、そういう監督と出会えたことはすごく嬉しかった。僕はなかなか難しい選手だと自分でも思っているけれど、そういう僕を使ってくれるんだから。代表でいえば、(イビチャ・)オシムさんもそうだし、岡田(武史)さんもそうでした。いろんな監督がいましたけど、やっぱりありがたいですね」
3.松井大輔「息子にサッカーは教えられない」。その理由とは
――現在、お子さんはおいくつですか?
「長男は中1で、次男は5年生です」
――サッカーはやっているんですか?
「上はバレーボールをやっています。『ハイキュー!!』を見て、やってみたいと。そこは『キャプテン翼』じゃないのかって(笑)。下の子はサッカーやっていますよ」
――教えたりはするんですか?
「『教えてくれ』と言われても、『お父さんは教えられない』と言ってます。遊び感覚でいっしょにサッカーをすることはありますが、教えるとなると、自分の子どもだと、力が入りすぎちゃうし、厳しくなりすぎてしまう。そうすると、子どもは面白くなくなるだろうし、サッカーを好きでなくなるのはイヤなので。楽しくやってほしいから、僕は教えません」
――どういう父親ですか?
「昭和っぽい父親だと思います。あまり、いろいろ言う感じでもないので。最後の砦でありたいと思います。おやじは何も言わないけど、怒らせないほうがいいよっていうのが、いいのかなと。そういう感じのラスボスみたいな存在になれたらと。反抗期もあるので、普段から厳しくしておかないと。おやじは厳しいというのがないと、歯止めがきかなくなることもあるので。反抗期には備えています」